読書メモ イヴ・ボヌフォア『ptyxの妄執―夢の批評的エッセー―』続

 
 
 日本語で読めない本のことを言うのだから
 曲がりなりにも要点を纏めようということで。
 自分自身の頭の整理にもなるし。
   

 六章のうちまず第一章について。
 この章が読書として純粋に興奮できたので
 その興奮に任せ要点ではなく思うたところを
 この一章だけは別にして。

 
 なんで俺はこんな物語が好きなのか?ということだ。


 一章は思い出語りから始まる。
 筆者が持っていたという地球儀の思い出だ。
 大西洋にありもしない大きな島が
 描きこまれていたという。
 それがひょっとして存在するのでは?という
 疑念からお話がどんどん展開してゆく。
 人類の言語体系では如何ともしがたい
 「第二段階の言語」があるのではないか?という「妄執」である。
 この「妄執」を契機にマラルメの難解故に有名な「yxのソネ」を
 本書で分析していくわけだけれど、
 むしろマラルメの話ではなくひとつの小説として
 話を続けて欲しかった、とさえ思う。


 こういった物語が好きなのだ。
 現実と非現実を言ったり来たりするような物語。
 ぱっと思いつくだけで
 牧野信一とか藤枝静男とか上林暁の一部とかデュラスとか
 他にもいっぱいいるだろうけど、
 とにかく
 知らぬ間に非現実の世界に誘い込まれ
 はたとその線のない世界に狼狽してしまい
 狼狽していながら結局その線のなさ故に
 我が意を得たりとほっとする、
 そんな矛盾した感覚を抱かさせる
 世界が欲しいのだ。
 

 怠慢なのか技術が有り余ってるせいか
 映画はあまりこれをやってくれない。
 驚かすだけ泣かすだけ。
 挙げるならソクーロフの映像か
 もしくは無声映画
 だから映画の十中八、九は
 俺にとっては芸術なんかではない、
 少なくともそんな素振りを見せることに堪忍ならない。
 映画は興行なのだ。
 映画に芸術を認めろなんて
 盗人猛々しいとさえ思っている。
 興行は興行で価値のあることなのに。
 けれど残りの一、二を求めて結局
 映画を見てしまう。
 たった一、二を求めて。
 たった一、二を求めて、八、九で無駄骨を折ってみせる。
 なんだ人生に似てるんじゃあないか、
 一、二良ければ全て良し、
 人生は算術ばっかじゃあるまいし
 術は術でも芸術についてもそうだろう。
 線引きとか算術とか通用せず
 現実のタガがはずれた世界を見せられて
 狼狽するのも当たり前。
 けれど
 安心するのも当たり前。
 線や計算のない世界には
 血生臭い戦争なんて起こりっこないんだから。