『英単語』その3 ≪2 文献学≫



文献学*1


 自国語に加えて、ひとつの言語を習得すること。このために何が必要か。ごく若くして、外国人の行き交う場所で生活してきたということ。何よりも外国人自身にありがたい特殊な状況に近づくのが一番なのだ。だがいつもお望みどおりというわけにはいかない。別の時期になると、幼年期の素晴らしく繊細な器官も消えて無くなってしまう。しかし、こういう事実の重要性を強調することもない。むしろ最初の口ごもりから片言の会話を行えるようになるまで、子供に必要な極めて長い時間のことを考えてみればよい。他の一切の機能の働きよりここでは大切な機能である記憶は、洞察力を持って学ぶという習慣により発達することになる。つまり記憶には知性の助けが必要なのだ。小さくしてかじった、外国語の真の学習は、大きくなった伸び盛りの読者諸君こそ続けて行うべきなのである。辞書一冊丸々、しかも恐ろしいほど膨大な辞書が与えられる。これを扱い慣れること、これこそ最初の試み、そしてひとたび文法的な基本事項を習得すればそれを助けに本を読む。授業であれ市井であれ、ひとりでやっても、学習者はここに至ることはないであろう。というのも必然的に切り詰められた主要概念と語との関係はというと、その語の数だけ多岐にわたっていると言えるからである。如何ほどのニュアンス(原義を一切留めていないような)があることか!一冊の辞典の項目に並べられた山のような語彙は任意にそして意地悪な偶然といったものによって呼び集められるのだろうか?否。これらの語のそれぞれ、諸国諸世紀を遍歴し、遠路遥々、然るべきその場所に至るのであって、あるものは孤立化し、またあるものは混ざり合ってまさにひとつの類縁を形成するのである。魔術の如く、仮に、幾千枚もの白紙である語彙集のような我々の精神に、昔ながらに、過去の生成について改めて表現する巧みな手になるような語が出現し、基礎付けあったり競ったり、つまり排除しあったり引き付け合ったりするなら、これらの語が今日構成する言語と読者諸君は一体化されるであろうし、一人前に使いこなすことができるであろう。複雑ですっかり忘れられたかくも多くの行為がここに再び始まるのだ、読者諸君のためだけに、語の歴史に目を向ける諸君のためだけに。すなわち最も志し高き者たちの、そしてまったく哲学的な目的、それでいて簡潔な、そして現代であれいつの時代であれ大いに理解してから、すなわち多くの事物の幾つかの関係を掴むことによって初めて幾許かのことを学び取るということに基づいたもの。才能があれば事足りる、しかし方法があってもまた然り。こんなことは「古典学級」*2を修めし者、これから修める者にお馴染みのところである。茫として危ういレミニッサン*3の類は全て、真の「記憶」には敵わないのだ。その機能は概念や事実にも並べられるものであり、つまりは習得するための最良の手段に「科学」が残るということである。

*1:十九世紀当時においては言語学とほぼ同義。ただし当時の言語学は現代では「比較言語学」と言われているものである。また語感的に言語学<linguistique>よりも文献学<philologie>の方が格調高い語と見られていた。

*2:ギリシアラテン語の古典。旧学校制度における中等学校教育の最終段階。

*3:日本語で言えば「おぼろげな記憶、無意識的想起」。また創作上の無意識の借用についても用いる。レミニッサンスがモチーフになっている有名な文学作品はプルーストの『失われた時を求めて』における「マドレーヌ体験」と呼ばれるシーン。