『英単語』その4

 文献学は厳密に言えば偏に初期の段階で教わる英語(イタリア語でもスペイン語でもドイツ語でもよいが)を、まずは同じ成果に、次いで、全く別々の成果に至るように、補うことが目的であり、まさしく、それが明らかにすることが整理されれば、「言語の認識へと続く歩み」であることに他ならないのである。それでは一方で歴史学そしてまた一方で論理学に、記憶と知性の二重の努力を並べてみよう。とはいえ、何語であれ言語に取り組む前に、幾つかの一般論は、このような学習が同時代の思想に齎したり求めたりする視点に関わるので、全く場違いではないであろう。
 学習すべき学問的材料のうち言語とは何か?言語は、「生」の全ての現象を表現することを担っており、それぞれの材料から、何らかのものを取り入れているのである。言語は生きているのだ。そして、(子供の理解を助けるため)外界はその像を示すほかないように、生の何らかの明示に関する、言説の一切の文彩が言語に対して用いられなければならないのである。同じような単語、また様々な時代の単語が、辞書の中に横たわっており、さながら地層のようである。手短に層とでも言っておこうか。言い換えれば、単語を一個であれ複数個であれ株に据えるように、その成長に内在する何らかの法則に従い単語は発達するのである。時には剪定すべき幾つかの新芽のある枝、そうでなければ、この語彙にはこの別の語彙に繋ぎ合わせてという風に、接木すべき枝に私は分類している。さらにまた言えば大量の流れがひとつの方向に規定されるのであり、つまり浸水や氾濫が単純な流れに方向付けられるのである。自然の全てに似ているのであって、それ故に命を司る有機体に例えるなら、「単語」は、母音と二重母音の中に、肉体のようなものを、そして、子音の中に解剖するには厄介な骨格のようなものを示すのである、等々、等々...生命が自身の過去、すなわち継続的な死を滋養とするなら、「科学」は言語の中にそういった事実を見出すことであろう。つまり言語は他の事物と人類を区別するが、やはりこの人類をその本質において自然であるに負けず劣らず人工的なものとして、宿命的であるに負けず劣らず思慮深いものとして、盲目的であるに負けず劣らず意図するものとして模倣するであろう。
 こういったこと全ては追々明らかにされることになる。