憑依してしょうがない言葉メモ

Vahine no te Tiare aka Woman with a

ああ、われをわすれたいねぇ、
われをわすれてるということをわすれるぐらい
われをわすれたい。
われおもうゆえにわれいらない。


気になる言葉、思い出すだけメモ。



「あなたはどうして一日中はたらくんです?」
「こんにちさまに申し訳がたたないからですよ。」
― 先代の文楽師匠

「あの野郎、一日中はたらいてらぁ」
「粋じゃねぇなぁ」
― 志ん生師匠


どっちも好きなのです。
落語聴かないと笑いの半分以上損してると思われます。



悲しいかな、フランス語が一発で脳壁にこびりつくということはあまりないけれど、


La paix soit avec vous.
平和があなたとともにありますように。


と念仏のように唱えられると、「生ぬるい!!!」と思っても、
さすがにこびりつきます。
無駄にキーキーしているフランス人にいつかこの言葉、
言ってみたいなぁと淡い夢を抱いております。
ともかくも繰り返し繰り返し同じフレーズが出てくるので
聖書を自分が学んでいる外国語で読むというのはいいかと思う。


En vérité, en vérité, je vous le dis.
まじで、まじで、言っちゃうよ。


とイエス様が何か大事なことをお話なさるときにしばしば言いますし、
旧約聖書なんかでは、


Voici ce que dit le Seigneur:...
主はこうのたまわれる。


という言葉がうんざりするぐらい出てくるのですが、
一度で、んがーーーとなるのは、ヨハネ伝の冒頭、


Au commencement était le Verbe,
et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.
始めに「ことば」ありき、
「ことば」は神とともにあり、「ことば」は神であった。


これはかっこいいので覚えようとしたというところもあるけれど、
ヨハネという人、書く才能によっぽど恵まれていたのか、
『書簡』と呼ばれる文章を読んでみると、
おぉ、おれも、信者になれそうと思わせるほどなのだ。


ちなみにバッハの『ヨハネ受難曲』よいですよ。
なにがいいって、
コーラス隊が、イエス様、イエーッスってな称揚から始まるのに、
かたや、当時の群集の役もしなくちゃいけない、
つまり、「十字架だ!!」、
エスをやっちまえ!!と、
叫ばなくてはいけない。
規則上、当たり前と言えば当たり前かもしれないけれど、
この矛盾、
なんて、人間らしいんだ。
Voici l'homme.
「この人を見よ」
とはこのことを言うのか、と素人的解釈で感動いたしました。
マタイ受難曲』よりコンパクトでいいです、この曲。


エスという人、
意地を通してオカンより、はよ死んだという理由で
誰がどう言おうと好きになれないけれど
聖書を読んでいると、こいつ、いい!という人物に出くわします。
ピラト。
エスを裁くローマ帝国派遣社員なのですが、
あまりにも人間くさくて、どことなく粋でありながら一個人の無力さを感じさせる人です。
このイエスっちゅうあんちゃん、わるいことしたように、みえへんけどなぁ、
まぁ、あんたらユダヤ人できめてぇや、わしゃしらんわ的な人なのだが


ROI DES JUIFS(ユダヤの王)
という十字架に掲げられた看板を
ユダヤ人にはずしてくれと言われて、ピラトが一言。


Ce qui est écrit est écrit.
書かれたものは書かれたものだ


と答えるくだり、でかしたの一言。
リエゾンの心地よさ、このためにあるんじゃないかというぐらい。


他の福音書をまだじっくり読んでないのでわからないが、
ヨハネ伝で違う意味で、要するに文法的に気になっているフレーズがある。


Dieu est Esprit.
神とは「精神」である。


というときの無冠詞、
まぁ、これは、Saint-Espritとも言うからかなぁとも無理やり納得させているんだが、


Dieu est amour.
神は愛である。

というときの無冠詞は、さぁ、わからない。
はっとする。
はっとさせた時点で、成功なんだろうけど、
理屈じゃあんまりよくわからん。
でもなんかわかる〜といった気もする無冠詞なのだ。
英語で言うビー動詞の後の無冠詞に関して
職業、資格なんかを言うときは無冠詞、
例えば、
je suis étudiant.(私は学生です。)なのが
je suis un étudiant étranger.(私は留学生です。)と、
形容詞「外国の」がついて限定を受けたせいで冠詞がひょっこり顔を出すとは
最初の方で習うことだし、
文法書をチェックしてみると、
三人称が主語のほうが無冠詞になりやすいなどと説明があったりして、
昔、とある劇の配役の説明で
Il est pigeon.(彼は鳩だ。)
なんて文章を見て、
職業じゃ、ね〜よ〜、
この問題、一筋縄ではいかないなぁと思ってたところに


Dieu est amour.


なんかもうしっちゃかめっちゃかであります。
そう言えば、
昔、街中の看板で


Je suis un assasin!!!
私は人殺し!!!


という文章とともに
ぎゃーなんて、ムンクの叫びのような顔をした人の写真を見かけたことがあったけれど、
あ〜そうか、ここには冠詞がつくんだな、
じゃあ、無冠詞で


Je suis assasin.


と書いた看板を見れば、
下の顔は、タオパイパイだなとふと思ったことを思い出した。


それにしてもムンクの叫びはまだ見付かってないのか?
今頃、どっかでぎゃーなんて叫んでいるんだろうな。


聖書の話は
このへんにして、
最近、読んだ本に
ゴーギャンの『ノアノア』というのがあります。
画家ゴーギャンタヒチ滞在記でありまして、
「ノア」とは現地の言葉で「香り」といった意味らしいのですが
朴訥な語り口調が続く中で、


Elle était peu belle selon l'esthétique européenne,
mais elle était belle.
ヨーロッパ的美意識からすれば、彼女は美しいとは言えなかった、
だが、彼女は美しかった。


といった一文に出会ったときには、
相対化の瞬間がこんなに見事に凝縮された文章に
ああ、ありがたや、と
神々しささえ感じましたです。
で、この「彼女」の絵をはっつけておきます。
これを見た瞬間、
正直、「ぶっさいくや、むちゃくちゃぶっさいくや」と思った私であります。
おあとがよろしくないようで。