非アナーキスト、ランボー


Qu'est-ce pour nous, mon coeur, que les nappes de sang
Et de braise, et mille meurtres, et les longs cris
De rage, sanglots de tout enfer renversant
Tout ordre ; et l'Aquilon encor sur les débris ;


今、ネイティヴによる詩の講義に出ているのですが、
これがまた、今までおれが受けてきた講義
―フランス本国も含めて―はなんだったんだというオモシロ講義で、
詩法、というかその効果をちらとでも感じることなぞ、
もうすっかりあきらめておったのだが、
そうじゃなかったと思わしむること十分な講義、
一言で言うと詩が蘇るスリルを味わえるのです。
上の詩はランボーのもので
極めてアナーキー
「ヨーロッパ、アジア、アメリカ、みんななくなっちまえ」
などと歌われたりする詩で、
こりゃまた痛快だと思いつつも、
これって詩なのか?
ただの単語の羅列でもって紙にぶちまけてるだけなのでは?
故にランボーいまいち好きになれないという短絡的な評価を
知らず知らずのうちに下しておったが、
そこで、問題、
さて、上に引用した詩篇の冒頭の革新性について述べよ。
ということになる。
これがわかると単なるアナーキーじゃないんだというのがよくわかる。
この詩の最後の一行
「大丈夫、ぼくはここに、ぼくはずっとここにいる」ともがっつりはまる詩に化けるのです。


詩法の効果込みで日本語に試しに訳してみると


「わが心よ、我らにとって何するものぞ、血のそして
燠火の瀑布、大量殺戮、長く続く阿鼻叫喚、
どんな秩序もひっくりかえす地獄全体の
すすり泣き、残骸の上にまだいるアキロン(北風)、」


あぁ、無理だね。日本語にするのは。
要するに、超古典的なアレクサンドランで最初は始まる、
きっちり区切りも半句で来て、
ネイティヴにとってはしみついたリズムだそうで、
さぁ、ここちのよいアレクサンドランだと、期待させておきながら、
だまし討ち、
突如、次の行からアレクサンドランとはいえ、
茨の道を行くようなリズム、
半句に区切りなんかなく、
しかも名詞の羅列、
しかもアナーキーなイマージュの連続、
アレクサンドランという車体が
ガタピシ言いながら、変な煙を吐いてなんとか最後まで進んだかと思うと
最後の一行はもはやアレクサンドランではなく、
ヴェルレーヌあたりまでは忌み嫌われていた奇数音(ここでは9音)で


大丈夫、ぼくはここにいる、いつもここにいる

Ce n'est rien! J'y suis! J'y suis toujours.


とくる。先生は「ぼく=アレクサンドラン」とおっしゃったが
個人的には「ぼく=ポエジー」でいいんじゃないかなぁと思ったのだけど、どうなんだろ。