マネ≪エミール・ゾラの肖像≫

エミール・ゾラの肖像


前回の続き

 そしてまた当時にも 悲しいかな!このことは過去時制で語らなければならないのだが あらゆる芸術を愛し そしてとりわけそのうちの一つのために生きた一人の頭脳明晰たる愛好家がいた。これらの奇妙な絵画はただちに彼の共感を勝ち得たのだ。直感的詩的予見によりその人はこれらの絵画を愛したのである。これは作品を矢継ぎ早に発表したり その絵画の説く諸原理を十二分に明示したりすることによって 多数の公衆たちのうち思慮深い少数者に その意味を啓示する以前のことであった。それなのに この頭脳明晰たる愛好家は こういったことを見る前に そしてその彼のお気に入りの画家が公の名を勝ち得る前に 亡くなってしまったのであった。
 この愛好家とは わが国最後の大詩人 シャルル・ボードレールその人であった。
 この画家を正しく評価したものとして 彼に続くのは 当時まだ駆け出しの作家でしかなかった エミール・ゾラである。その作品を特徴付ける未来への洞察力でもって 現れたばかりの光を正確に認めたのである。今日「自然主義」と呼ばれているものを 当時定義付けたり そして 万人に対して抽象的な手法で植え付ける現実というもののみならず 因習を意識して放棄した者たちに対しても「自然」そのものが植え付けるような絶対的な感覚をも追求するには依然若すぎたというのにである。

ステファヌ・マラルメ印象派の画家たちとエドゥアール・マネ

・学術論文のように
ひとしきり絵画史を振り返った後で
マネについての批評史を振り返っているくだり。
マネを評価したものとして
ボードレール ゾラ そして私となって本題へ突入していくという形をとっている。


・マネはボードレールの肖像を五枚ほどエッチングで残している。
このエッチングを元に<チュイルリー公園の音楽会>(1862 ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)にボードレールを描き込んだ(中央右の幹の下に描かれている男)。


・マネが描いたゾラに オルセーにある有名な<エミール・ゾラの肖像>(1867-68)がある。
この絵の興味深いところは背景にもある。
右上の絵は ベラスケスの<ヴァッカスの勝利>(1599−1600 プラド)。
また当時広まりはじめたジャポニスムがはっきりと見て取れるということ
(力士の絵は二代目歌川国明の『阿波国出 身力士大鳴戸灘右衛門』ということらしい)と
マネの代表作のひとつ そして今ではオルセーの至宝のひとつ<オランピア>が描きこまれているということだ。
なぜこれが<ゾラの肖像>に描きこまれているのか?
行き当たりばったりではない。
サロンに入選したにもかかわらず
<草上の昼食>より はるかにスキャンダルとなった
ほとんどアカデミーがはなから見せしめをもくろんでいたのでは?
と思えるほど 非難轟々のこの絵画を 絶賛し褒め称えたのが
ほかでもない
エミール・ゾラだったからだ。 


・当時の絵画の常識からすれば
裸婦はすべて神話になぞらえなければ ならなかったわけで
普通の女性を草の上に座らせるなど 言語道断だったのに さらには
オランピア>となれば <オランピア>という名が既に 売春婦の通称で
あるが上に 髪の蘭 アクセサリー サンダル 足元の黒猫 メイドの花束など
すべて性を示す道具立てとなっているのである。


・さらに横滑りになるが<オランピア>について言えば
ティツィアーノ<ウルビノのヴィーナス>(1538 ウフィッツィ美術館)やゴヤ<裸のマハ>1800年ごろプラド美術館)の影響というか
ティツィアーノの構図をそっくりそのまま借りてきている。


・マネ ゾラ マラルメ の三角関係裏話
マラルメはゾラに絶えず賛辞を送っていたが
ゾラはマラルメをただの気狂い詩人と思っていて
それほど馬の合う二人ではなかったようだ
というのも この記事を書くころから
マネとマラルメが急速に親交を深めたことに
ゾラが密かにやきもちを焼いてしまったからだ という話が残っている。