『英単語』その5

 言語の始原に関する考察の中に迷うこともなく、「文献学」(つい最近の科学)はラテン語ギリシア語といった昔の死んだ言語や英語やフランス語といった近代の生きている言語の出現を検討することにより、言語が示す働きを正確に把握するのである。例えば、ラテン語ギリシア語並びにその始まりに於ける英語やフランス語に関して、それらは自発的に生じるのではなく、退化であれ洗練であれ、前の時代の変形でしかないということを我々の「科学」は認識している。自発的なものなど何もないのだ。新しい、つまり生まれ変わった種族の小さな子供たちが未だ存在せぬ市場や広場に集い、ひとつの母語を公布したり布告したりすることはない。それにまた、我が国のアカデミー次いで時代は下ってリトレや英国人レイサムといった大家たちが大辞典を編纂しているが、それはまさしく専ら過去の出来上がった言語の長い変遷を示すことによってなのだ。移住民族が、別の風土の作用の元、自らの言語を変質させたり、また被征服民が征服民の言語をそうするのであり、こういった変化からいつとははっきりしないうちに新たに生成された言語が生じるのである。「自然な」もしくは「民衆的な」、さらによりよく言えば、本能的な形成はかようなものである。だが「文献学」のこの厳密な見解に、昨今、やはり変わらず真実であるひとつの見解が加えられる。かなりの数の術語を捏造したり周囲の空気から引っ張り出すと言うことでは決してなく、進歩した時代(と言っても創造的な力もそれとともに伝統も失われている時代なのだが)の文学者たちは母胎となる言語に幾千もの語彙を探し求め、作り出した規則に則って、意のままにそこからそういった語彙を引き出したのである。それは人工的ではあるが、お望みならば、学術的とも言える派生。芸術と文芸の復興または科学の大幅な進歩があれば古代にはなかったこのような現象を引き起こすことができるのだ。然しながら、これで全てなのだろうか、そして「第三の言語形成の方法」、今述べたような、自発的なるものと人の手の入ったものの間に位置するものはないのであろうか。この点に関しては≪序文≫に於いて「読者」に示されることになる。
 何よりもまず、我々フランス人は、英語を学ぶにあたって、どこに位置づけられるのか?