ステファヌ・マラルメ『音楽と文芸』より

jedisunefleur2004-05-03


 
 題名変えちった。
 そんな気分だったから。
 体中に写経して姿を消したい そ〜んな気分だから。
 それと「愛の賛歌」で来るならまだしも
 「様々なる意匠」で来る人にはちょっと申し訳なかったから。

 
 今日は「英単語」ではなくて
 もそっと刺激的なマラルメの文章を。
 マラルメの真髄とも言える箇所を。
 とは言え
 その真髄たるや
 いまだよくわからないぶよぶよした感じなのだが。

 
 でもほんのときおり
 マラルメにニアミスしたなって思うときがある。

 
 かつて 珍しく東洋画の展覧会に行ったときのこと。
 作者も題も忘れたけれど
 引き付け起こしそうなぐらい
 引き付けられた一枚の絵画があった。

 
 白鳥なのか白鷺なのか知らないが
 ともかく白い鳥の絵だった。

 
 紙は白い。
 それなのに白いものを描くときは白を塗る。
 これ常識。
 いや 西洋の常識。

 
 その絵は
 白鳥の部分に色を塗らず周囲に色を付けて
 白鳥を表現していた。
 浮かび上がらせていたという方が正確だろう。

 
 マラルメの真髄に ニアーだよ! 
 そう思ったものだ。


 それでは今日も写経を。

 厳密に言えば、私は読書を絶望的な行為と思っております。


 それ おまえやん。おまえがおれを絶望させるんやん。
 とツッコミをいれたとき
 ん?
 マラルメの真髄に ニアーだよ! 
 そう思ったものだ。


 これはとある講演を原稿に起こしたもの。
 講演だからいつもより難解ではないけれど
 講演でしゃべっても誰も理解できないのでは?という難解さではある。
 しかも これ エゲレスにてフランス語でやったてんだから
 呆れてものも言えません。
 しかも家族にはなかなか好評だったよ なんてにやけてたりします。
 

 さて続き。

かくしてどんな産業も、幸福の製造に失敗致しました。その組立ては産業の手の届かぬところにあるのですから。秘密の配列などと銘打っているもののどんなものも、ここだけの話ですが、満足させるはずもない瞬間が私にはあるのです。
 ≪何か他のもの≫..ページというものがばらばらに震え慄くのは先延ばしでないとすれば何か他のものへの可能性に、堪え切れずに震えようとしているかのように思えます。
 私達は絶対的な公式に囚われて、なるほど、在るものしか在りはしないと知っております。しかしながら、何らかの言い訳のもと、この誘惑をすぐさま遠ざければ、我々の首尾一貫性のなさをあからさまにしてしまうことになるでしょう。私達が手に入れたいと思っている喜びを否定しているのですから。何故ならばこの彼方こそがその喜びの要因なのです、そして原動力、人前で虚構、つまり文学のメカニズムを冒涜的にも分解して見せて、主要部品すなわち無を広げることを毛嫌いしなければ、原動力とも言えるのでしょうが。しかし、ひとつの詐術によって、どこか雷のごとき禁断の高みに、彼方で輝き炸裂するものが我々にはないという自覚的な欠如をいかに打ち上げ映し出すのか、そういったことを私は崇めているのです。
 これが何の役に立つというのでしょう?
 遊びにはなります。

 写真は小さくて判りづらいが立っているのがマラルメ
 居丈高に座っている翁がルノワール
 確か撮ったのがドガ
 マラルメ邸にて。
 濃密な芸術界の一端を示す写真です。