ジュリア・クリステヴァ『詩的言語の革命』より

jedisunefleur2004-05-12



この間、世界を見た。
ポンピドゥーセンター一階の床一面に
世界地図が描かれていたのだ。
ちょいと悪戯心を起こしてみました的な
遊び心もたまには素敵なものですね的な
アート感覚には
ほどほどに
ウンザリしているのだが
取り合えず
世界の真ん中に立ってみた。
もちろんフランスが真ん中である。
世界の真ん中から日本を見た。
猫背だった。
ぷるぷる震えていた。
韓国という直腸から放り出されたメルドだった。
台湾はそのおつりと言ったところか。
何にしろ 世界の中心は日本ではなかった。
やはり改めて よう共産主義にならんかったなぁとも思った。
おかげで おれは ごくつぶしと言われながらも
ここにこうして立てているわけだ。
世界の中心がずれたおかげで
色々思うことができたわけだ。
ええ 思いさせてもらっとるわ と
一通り世界を眺めて
フロアを出ると
寒が戻ったせいか、
逆に ずれていないせいで気付いていないことが
もっとたくさんあるんだろうなぁと
薄ら寒いことを思い付いてしまった。
国土地理院
わしらを知らん間に打ち負かしやがって
他にももっと...
まあ しゃーないわ
はよ 家帰って まっずい うどんでも食うて 寝よ
くわばら くわばら と足早に広場を後にした。
そういうわけで思い出すのはクリステ婆の文章。

 休息の思想、目まぐるしい歴史から遠ざかった暇潰しの思惟の発露、この思惟こそ、どこにもない宙吊りの言表を形式化することであくまでも言語の真実を探求しようとするものであり、もしくは錯綜した歴史社会から身を引き、直接的な実践から離れた眠る身体、横になって休む身体の物語に耳を貸すことで主体の真実を探求しようとするものなのである。「生きるか死ぬか(…)。死んで、眠って、眠って…多分夢を見て。」*1
 だがこの思惟にもひとつの真実がある、つまり社会(資本主義の)に唆され助長された活動は肉体と主体を横切る≪過程≫を圧殺しているということ、だからこそ我々の間個人的そして間社会的経験から抜け出し、この社会のメカニズムによって抑圧されたもの、すなわち意味を生成する場に至る機会を得なければならないということがそれである。

栗捨て婆はフェミニストだと言われる。
それは間違いないことだが、
果たしてフェミニストとして担がれることを
快く思っているのだろうか?という疑問が
この『詩的言語の革命』を細々と読み続けてみると沸いてくる。
この本は 
社会や権力に無意識裡に拘束されている
書くという問題を考察したもので
それを最も逃れようとした例に
マラルメロートレアモンを俎上にのせているわけだが
彼女の理論を読んでみると
この本を書いた将来に
社会に抑圧されたものとしての女性を
考察することが必然であるように思われる。
要するに彼女にとってフェミニスムとは
あくまでも考察のひとつの対象に
過ぎないのではないか?
普通 人が何かものを考えるとき
実際のところ
まず直感的な結論ありきで
フェミニスムの場合 ごく単純に言えば
男女同権であるべきというところから
不埒(フェミニスムのみならず人の思考の方法そのものがと言う意味で)にも
過程を辿りなおしてそれを正当化するものだろうが
栗捨てヴァの場合 どうなんだろう。
どうも違うような気がする。
少なくとも
フェミニズムの理論に肯定的な興味を抱けるようになった。