ステファヌ・マラルメ『音楽と文芸』より

jedisunefleur2004-05-15



 お湯の沸騰する瞬間を
 見るのが好きだ。
 ただ単純に
 現象としては
 文明が自然の性質を用いているに過ぎないのだが
 心象としてはそうではない。
 蒸気機関を発明するほどの天才ではなくとも
 何か心にざわめきを感じるのだ。
 毎度毎度...
 
 だから毎度のように
 鍋底を眺めている。
 最初はキュ〜キュ〜と
 なにか軋んでいるかのような音が鳴り
 次にシャーシャーと
 毎回思っていたより高い音が鳴り
 と同時に気泡が底に溢れ始め踊り始め、
 そうして最後に
 もう しんぼうたまらん!と
 でっかい泡になって水面に炸裂する
 毎度毎度思っていたより柔らかい動きで。
 限りなく近い擬音語を探すなら
 どっっひゃ〜 だろうか
 もしくは どっぱぁぁ〜 か。
 後はやりたい放題の湯気の吹き上がりを見て
 満足するのだ。
 沸騰の瞬間を迎えるたびに
 キタ キタ キタ キタ キ...
 キタ━━( ゜∀゜ )━( ゜∀)━(  ゜)━(  )━(゜  )━(∀゜ )━( ゜∀゜ )━━!!!!
 である。
 鍋底と水面
 ほんの数センチだけのドラマではないように思う。
 ずっと鍋底の地底深くから
 待ってましたと
 自然が集い
 湧き上がって来ているような印象を抱くのだ。
 ドラマどころではない。
 マグマなのだ。


 文明なんざ
 あさってきやがれ!
 とキップのいい思いをさせてくれるのだ。

 <自然>は生起し場所を占めており、人はここに何も付け加えられないでしょう。都市の鉄道や設備の幾つかの発明を除いては。
 人が出来る行為は全て、永遠にそして唯一、時間の中で、希薄であれ多様であれ諸々の関係を捉えることしか残っておりません。それも何か内的状態といったものによってであり、そしてお好みに合わせ世界を広げようが単純化しようがそれしか残っていないのです。
 これは創造することに等しい。というのもそれが、遁れ行くような、欠如している対象の観念なのですから。

 マラルメにとって創造すべき対象はただひとつ、
 「欠如」でした。
 「虚無」と言ってもよいでしょう。
 時に「空隙」とも言います。
 マラルメ研究の中では「不在の在」ともよく言われます。
 前回 引用した箇所では
 空の彼方に何かを打ち上げることを夢想するわけですが
 その何かとは「欠如」であったことを忘れてはなりません。
 この「欠如」を創造しようとしたのではなく
 思考しようとしたのが バタイユであり
 アンガージュマンという肯定的なエネルギーに換えたのが
 サルトル という理解をしておりますが
 いかがでしょう。
 なにはともあれ これが二十世紀の美学的な
 テーマのひとつとなるわけです。