『英単語』その16 ≪3 オイル語≫

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オイル語


 一方、フランス語とは何だったのか、より正確に言えばオイル語(ウイをこのように言ったところから)と呼ばれていたものは?
 ギリシア語にかつてイオニア語、エオリア語、アッティカ語、ドーリア語があったように、四つの方言を数えた言語。≪フランス語≫(イル・ド・フランスのそれ)*1はちょうどピカルディー方言、ブルゴーニュ方言、ノルマンディー方言を征服し始めたところで、ノルマンディー語がこの≪フランス語≫をアングロ=サクソン語に齎したのである。四つの表現様態があれば四つの文学があり、これらが土地も共有したのだが、カンティレーナ、つまり短い叙事的な唄の分野で豊かなものであった。これら一連の小詩群は、依然『ロランの歌』(十二世紀)の形式は見られないが、既にそのどれもが、『聖女ユーラリーのカンティレーナ』(十世紀)ではなくなっていた。
 それでは『ロランの歌』の一節を抜粋してみよう。


Olivier est dessur un puy muntet,
Or veit il ben d’Espaigne le regnet
E Sarrasins ki tant sunt asemblez.
Luisent cil elme, ki ad or sunt gemmez,
E cil escuz e cil osbercs safrez,
E cil espiez, cil gunfanum fermez.
Sul les escheler ne poet il a cunt et,
Tant en ad que mesure n’en set,
En lui meisme en est mult esguaret ;
Cum il einz pout del pui est avalet,
Vint, as Franceis, tut lur ad acuntet.


 逐語訳。
 「オリヴィエは山に登った。さて彼はスペイン王国とぎっしり集まるサラセン人をじっと眺めた。その兜は金色に煌いて光を放っている、それに盾や房飾りの付いた鎧、そして剣、風にたなびく軍旗も。その軍勢を数え上げることは出来ない。数え知れぬほどなのだ。すっかり彼は取り乱した。やっとのことで下山し、フランス人の元に向かいすべてを彼は語った。」


 現存しているそれ以前の詩の名残として、ここでは、≪ユーラリー≫という≪ウツクシキココロノムスメ≫を称えて作られた唄の断片を引いてみよう。


Elle n’ont eslkutet les mals conseillers,
Qu’elle Deo raneiet chi maent sus en ciel,
Ne por or ned argent ne paramenz,
Por manatce regiel ne preimen ;
Neule cose non la povret omque pleier,
La polle s’empre non amast lo deo menestier.


 美しき若い娘ユーラリーについて、こう語られている。
 「天の彼方の神を否定するようにという悪い忠告者の言葉を、金のためにも、銀のためにも、装飾品のためにも、王家からの脅しのためにも、どんな懇願にも、彼女は耳を貸そうとしませんでした。何ものにも決してこの若い娘は屈することなく、神様にお仕えしたいといつも思っておりました。」
 これらの引用のどちらもひとつの言語の研究に不可欠な材料はないとは言え、それでもこれについて二つの要素を述べておきたい。まずは十二世紀の作品では原則として現代フランス語に多くの似ている点があるということであるが、一方、十世紀の作品では、依然ラテン語との接点が幾つか認められる。その時代そのものの例のないまま、二つの作品を取り上げたように、前者は少しだけ前の、後者はかなり後のものであり、これら二つの際立つ特徴をそれぞれ区別するためには、同じ方言すなわちイル・ド・フランスの言葉から選ぶのが適切であったのだが、これが書かれた痕跡を示してくれる唯一のものでもあるのだ。フランス語つまりイル・ド・フランスの言葉とこれとともに競存していたもの、ノルマンディー語でさえ、それらの間にある違いは細かな点では相当大きいにせよ、然しながら、さらに書かれた痕跡が見付かれば、それらの言語のうちのひとつが示す、一方で十九世紀のフランス語、他方でラテン語とのはっきりとした関係を否定することはないであろう。
 然り、ヴェルギリウスタキトゥスの言語もしくはその口語形に、ほぼ間違いなくこの古仏語は由来しており、特に現代のフランス語と当時のものとの違いは依然語尾変化が残存しているということである。二つの格が残っているのだ。主格と対格が実際に現代フランス語の名詞と形容詞となり、後者には語尾変化のnが認められ、英語にまで残っている[原注]。なぜこの二つだけが残ったのか、六つも格のある複雑なものを巧みに操ることに開人たちが大いに困難を感じたということでなければ!未開人たちの口に上ってゆくうちに損なわれたらしいラテン語から、こうしてフランス語が現れることになる。そう、だがどういった方向でこのような変化が起こったのか?冠詞等の分析的小辞や、二つを除いて失われた格の名残から名詞の前に置くべき前置詞が生まれたと認めざるを得ないとは言え、ここでは文法のことは省くことにするが、語の新たな側面だけはやはり規定すべきである。有音のものが減るが、それはもはや文字が個別に発音されなくなったのではなくoiやailといった腐敗したもの*2もしくはeuやouといった中立的で安定したもの*3を示す二重母音に固められたからであり、そうなると北進するに連れて無声化されたものが増え、オイル語は、オック語(やはりウイから取られたもの)という後のイタリア語やスペイン語と姉妹関係になるフランス南部地方の言葉よりずっと早くラテン語の特徴を失ったのである。それは語彙全体の発音を何か端折ったかのようなもので、その全くアクセントの置かれない語尾はどっちつかずのままさ迷いそうして消えてしまった、はたまた子音のひとつひとつをはっきり発音するのを端折ったかのようなものであり、その子音のうちのひとつが落ち前後の母音がひとつになって複雑で近代的な音になったか。かいつまんで言えば、実際、こういうことなのだ…この言語が目に見えない形で洗練されたのは民衆においてなのだが、そこから聖職者や上流階級に至るまでに三世紀あれば充分であったのだ。ユーグ・カペー*4ラテン語を知らないのだ。
 新しい言語の語彙全て、当時の≪ロマンス語≫(今日ではこの語族全体の言語各々に適応されている名称であるが)は、ラテン語が由来だったのだろうか?そんなことはない。ゲルマニアから侵入したフランク族がガロ=ロマン人*5と結び付き、この言語を用いそして変化させたのである。千近くにも上る政治や法律、及び軍事用語、そしてケルト人が残した極僅かの動植物名や生活用品の名称といったものは、当初は、すべて外国語の寄せ集めだったのである。ガリア人はユリウス・カエサルから市民権を得、征服者であるローマ人に齎された語彙は長い間彼ら自身が用いたとことで、ひとつの固有の言語となったのである。

[原注]例えば、(factio-n-emから)« facon » (方法) を意味するfashion.

*1:現在はフランシアン方言と言われるがマラルメが執筆した当時、このような術語はない。グラン・ロベール辞典には1889年初出とある。

*2:マラルメの独創

*3:同上

*4:カペー朝初代。987年即位。この時代からフランシアン語(後にフランス語となるもの)が標準化し始める

*5:ローマ帝国に征服されて以降のガリア人