『英単語』その21「序文」最終回

 シェイクスピア、ミルトン、シェリーそしてバイロンそれにあれほど多くの素晴らしき散文家達、彼らこそここで検討した言語の二重の宝を、幾世紀にも亙り、伝え合ってきた天才達である。これらの巨匠達のいかなる者も誤った愛国主義から、言語に於ける未開の要素を古典的な要素、つまりフランス語の要素から切り離そうなどとはせず、彼ら全てが、英語をこの上なく特異で現代言語のうち最も豊穣なもののひとつとしたこの離れられぬ婚姻から極めて美しい効果を引き出したのである。本土の古い言葉が海を渡った、そして新大陸で、ポーであれホイットマンであれその思想にこの言語が用いられ、やはり同じように再び花開くのである。その遠き国でも、否定しがたい起源を揺さ振ろうと本気で試みようとすることもなかったが、そこでは綴り方に於いて、フランス語の痕跡を消し、アングロ=サクソン語とギリシアラテン語の影響をのみ対峙させるという傾向があるようだ。だが確かな過去の記録と反対のことを言っても意味のないことだ!
 「前置き」でお知らせした通り、必ずしも人工的でも自然でもない言語形成の第三のケースを読者諸君は見てきたのである。つまりほぼ出来上がった言語に注がれたほとんど出来上がった言語のケースであり、二つの間で起こったひとつ混合物なのだ。その枝が幾世紀もかけて二つの果実、例えばラテン語とフランス語を与えるような唯一の言語の蒙る緩慢な退化となんと違うことか、そしてまたやはり我々の手によって一切合財示される語彙の学術的錬金術の釜で熟成した人為的な操作ともなんと違うことか。要するにこのようなことなど全くないのである。接木だけが新しい現象となる姿を差し出すことが出来るのだ、そう、一部のフランス語が一部の英語に接木されたということである。そしてこの二種の草木は、紆余曲折を経て、一本の同じ茎に血を分かち合う素晴らしき植物となったのだ。
 程度の違いこそあれ絶えずこういった事実は明白であると言えるが、事実ギリシア語はその語をラテン語に混ぜ、そしてゲルマンのことばから、スペイン語そしてイタリア語から数多く、我々自身も幾多の語彙を受容し、今日では我が国の言語の根幹とほとんど区別が付かなくなっている。これらのどれも偶発的でしかなかったのであり、フランス語なしに英語はなかったというだけの話ではなく、文献学者達よ、こういったことは文学者達に求めるべきなのだ。そうすれば言語の年代記において新しいある言語ならではの性質といったものがこういうところから考慮されるであろうが、それは英語、すなわち当該文献学の三巻本を終え、「結論」にて判断するときが来たときの話だ、何故ならこういった方向でこの序論は結論に再び結び付くのだから。

ひとまず終了。
これからがマラルメ的妄想の真骨頂と言えば真骨頂なのだが
さすがに吐き気がしてきた。
よい勉強になった。
よいデータベースにもなった。