オクターヴ・ミルボー『芸術家たち』よりフィンセント・ファン・ゴッホ

jedisunefleur2004-07-26



ハッハッハッ
おもっくそ
かっこつけたった♪
この写真に
題をつけるなら
「太陽はしじまをも照らし出す
または
三流ミュージッシャンのCDジャケット風
ゴッホの麦畑和え」
に違いない。
んなわけで
ゴッホ最期の町
オーヴェル・シュル・オワーズに赴いた。
パリ郊外にありながら
実に静かな村だった。
観光業でひともうけという色気はほとんどないが
それでいてゴッホにまつわる文化的遺産はしっかりと保存しようという
愛すべきフランスを感じさせる村だった。
レリー城、ゴッホのアパート、ガシェ先生の屋敷、オーヴェルの教会
そして麦畑、、、
ゴッホが描いた町並みがはっきりそれと分るような形で
残されていた。


パリには珍しい
夕立の後、
燦燦と輝く太陽のせいか、
とりわけ金色に照り映える
麦畑は実に素晴らしかった。


一説によると
ゴッホはここで自殺を図ったという。
まさしく「図った」のだ。
ピストルを脳天に打ち込んだものの
死に切れず
自らの足で自宅に帰り
二日苦しまなければならなかったのだ。
「どこまでも どんくさい奴」
と私は密かに思っていた。
けれど
この麦畑を前にして
死に切れなかった理由がもう一つ思い浮かんだ。
引き金を引く瞬間
この風景に迷わされたのではないか?と。
そんな
おセンチな気持ちも許されるというものだ。
この風景を見て
死にたい奴は
死ね

私は
思わず
嗚咽を漏らしそうになった。


そんな気分で
十九世紀当時既に
果たして
ゴッホは語られていたのか
と大して期待せず
ガリカを検索してみると
あった。


ちなみにゴッホはフランス語発音ではヴァンサン・ヴァン・ゴーグである。
すっかり別人である。

A l’Exposition des Independants, parmi quelques tentatives heureuses et, surtout, parmi beaucoup de banalites, et plus encore de fumisterie, eclatent les toiles du regrette Van Gogh. Et devant elles, et devant ce crepe noir qui les endeuille et qui les designe a la foule indifferente des passants, on se prend d’une grande tristesse a penser que ce peintre si magnifiquement doue, que ce si frissonnant, si instinctif, si visionnaire artiste n’est plus.


アンデパンダン展では、幾つかの巧みな試みの中に、そしてとりわけ大量の凡庸さの中に、もっと言うならでたらめな凡庸さの中に、今は亡きファン・ゴッホの絵画が輝きを放っている。その絵を前にして、そして絵に付けられた、通りがかりの無関心な人々にその存在を知らしめる喪章を前にして、かくも才能溢れるこの画家、このかくも震えていて、かくも本能的、かくも幻想的な芸術家がもういないと思い、人は大きな悲しみに捉えられるのだ。

Il se mit a peindre, un jour, par hasard. Et il se trouva que, du premier coup, cette premiere toile fut presque un chef-d'oeuvre. Elle revelait un instinct extraordinaire de peintre, de merveilleuses et fortes qualites de vision, une sensibilite aigue qui devinait la forme vivante et remuante sous l’aspect rigide des choses, une eloquence, une abondance d’imagination qui stupefierent ses amis. Alors Vincent Van Gogh s’aharna. Le travail, sans treve, le travail, avec tous ses entetements et toutes ses ivresses, s’empara de lui. Un besoin de produire, de creer lui faisait une vie sans halte, sans repos, comme s’il eut voulu regagner le temps perdu. Cela dura sept ans. La mort vint, terrible, cuiller cette belle fleur humaine. Il laissait, le pauvre mort, avec toutes les esperances qu’un tel artiste pouvait faire concevoir, une oeuvre considerable, pres de quatre cents toiles, et une enorme quantite de desseins dont quelques-uns sont d’absolus chef-d’oeuvre.


ある日、彼は何の気なしに描き始めた。すると最初から、この処女作がほぼ傑作であると知ったのだ。それは画家の途轍もない本能、素晴らしくて力強い見方の本能、事物の動きのない様相の元、生き生きと生気溢れる形態を見極める鋭い感受性、友を唖然とさせる想像力の雄弁、豊穣を明らかにしていたのである。こうしてフィンセント・ファン・ゴッホは熱中した。休みなく描き、わき目も振らず、虜になり、我を忘れて描いたのだ。描きたい、造りたいという思いから、まるで失った時間を取り戻そうとするかのように寝食を忘れて彼は過ごした。これが七年続いた。それから死がやってきたのだ、恐ろしい死が、この人類の美しい花を摘みに。今はないこの男は、このような芸術家が抱かせたかも知れぬ全ての希望と共に、油絵四百点近くの重要な作品と幾つかは間違いなく傑作である大量のデッサンを残したのである。

生意気ながら今日の私の先生
ミルボーの感想文。
初めてじっくり読んでみて
ゴッホの同時代にありながら
なかなか魂のこもった
的確な数ページであると思ったけれど
あまり好きになれない文体上の癖がある。
よく似た形容詞の繰り返し、
よく似た内容の繰り返しがそれだ。
外国人だからこそそれがただ単に同じに見えて
ニュアンスが分っていないということがあるかもしれないが
この手の文章を見ると
私自身若人に属しているとはいえ
やはり
若気の至り的文体と思ってしまう。
だから今日は先生と言っても反面教師だ。
しかしながら、
かっこいい主語の据え方など
ミルボー晩年の文章を読んでみたいと思わせるものも確かにあった。