ロラン・バルト『エッセ・クリティック』より


上をむぅういて
あぁるこおお
なみだがーこぼれーなぁいよおおに♪
なみだをふいてーー
だきしめあえたらぁーー♪
おっぺけぺぇのぉぺー♪
お日本人って古来からライムしてんじゃん♪
ますたーべーじょん 悲しいけぇれどおお
おわりにしぃよおお きりがないからぁああ
ますたべーじょん 泣くな 男だろー♪
か。
けれどやっぱり
時代遅れの男になりたい♪
だろうか
ぼくの鼻歌ベストヒットは。
同世代ではないのだが。
このようであるから
いまだに
現代批評系の方法論の論文と聞くと
そっと親指を隠してしまう。
これではいかんと
最低でも飲み屋談義程度にはと思って
ぽつぽつ読んだりしているのだけれど
やっぱりもう一世代待てといった気持ちは拭い去れない。
そうワシが死んでから後の世にゆだねようじゃないかと。
ちょうど一世代前がアランだったように。
とはいうものの最近の興味は批評の、近代も含めた流れだ。
それを追ってみると
大雑把に言えば
科学主義(人文科学)か相対・印象主義かの綱引きなのだ。
科学か相対か
理系か文系か
ほとんど現代人の妄執だ。
どちらにも欠点がありどちらにも長所がある。
どちらにせよ批評は作品に対して手に余るものがある。
かといって無力ではない。
作品に聖性を与えた批評などごまんとあるし、
そうすることで批評も聖性を付与されてきた。
批評には作品がなければどうしようもないということは自明だが
もはや作品も批評なしで自立などできないのだ。
遺伝子の二重螺旋にも似て
それにまさしく「人」なる字にも似て
科学さえ抜き差しならぬなまず状態
自立などままならぬあまったれ状態
これこそが文学なのであって
人間の学なのだろう。


今日はバルト。
バルトの新しさは
客観か相対かのいざこざをテクストの中へと
地平をずらしたということ(少なくともそう主張した)だろうか。
そこがまたバルトのそそるうさんくささなのであるが、
ともかく
バルトと言えば、
学部生の頃、読んで、何のことやらさっぱりわややと
本をそのままうっちゃった思い出しかない。
シニフィアンシニフィエショキノウキ。。。
最も興味があるお洋服の記号論にしても分厚いしなぁなどと
ミシュレを論じるっていうのもそそるよなぁなどと思いつつも
敬遠してしまう。
そんなことではいかん!
へそを曲げるのは知ってからというのが礼儀だろう。
というわけで遅ればせながらバルトのフランス語を
親指出しながら。

On touche ici a une des responsabilités les plus graves de la critique universitaire ; centrée sur une génétique du détail littéraire, elle risque d’en manquer le sens fonctionnel, qui est sa vérité : rechercher avec ingéniosité, rigueur et acharnement si Oreste était Racine ou si le baron de Charlus était le comte de Montesquiou, c’est du même coup nier qu’Oreste et Charlus sont essentiellement les termes d’un réseau fonctionnel de figures, réseau qui ne peut être saisi dans sa tenuequ’à l’intérieur de l’œuvre, dans ses entours, non dans ses racines ; l’homologue d’Oreste, ce n’est pas Racine, c’est Pyrrhus(selon une voie évidemment différentielle ) ; celui de Charlus, ce n’est pas Montesquiou, c’est le narrateur, dans la mesure précisément où le narrateur n’est pas Proust. En somme, c’est l’œuvre qui est son propre modèle ; sa vérité n’est pas à chercher en profondeur, mais en étendue ; et s’il y a un rapport entre l’auteur et son oeuvre (qui le nierait ? l’œuvre ne descend pas du ciel : il n’y a que la critique positiviste pour croire encore à la Muse), ce n’est pas un rapport pointilliste, qui additionnerait des ressemblances partielles, discontinues et « profondes », mais bien au contraire un rapport entre tout l’auteur et toute l’œuvre, un rapport des rapports, une correspondance homologique, et non analogique.


ここで大学の批評のこの上なく重大な責任のひとつについて触れてみよう。文学的細部の生成論に集中した、この批評はその細部の機能的な意味を見逃す恐れがある。その意味こそ真理なのだが。巧みに、そして厳密に没頭してオレストはラシーヌだったのかとかシャルリュス男爵がモンテスキュー伯爵だったのかと追い求めることは同時にオレストとシャルリュスが本質的にフィギュールの機能網の≪辞項≫であることを否定すること、その≪持続≫において理解されうるのは、その根幹ではなく、専ら作品の内部において、その周辺においてしかできない機能網の≪辞項≫であることを否定することである。オレストとあい対する人物[オモローグ]、それはラシーヌではない、フィリュスなのだ(明らかに差異的な道を辿れば)。シャルリュスのそれは、モンテスキューではない。話者なのだ、まさしく話者がプルースト≪でない≫というときと同じく。要するに、作品こそが自身のモデルなのであり、その真理を追い求めるべきは、深くではなく広くなのである。それに作品と著者の間に関係はあるが(誰がそれを否定しようか?作品は天から降ってきたものではないということを。つまりいまだミューズを信じるためには実証主義批評しかないのだということを)、それは、部分的で、断続的そして「深い」類似を加えるような点描的な関係ではなく、全く逆で著者全体と作品全体との関係、≪諸関係の関係≫、相応的[オモローグ]な対応関係であり類似的な関係ではないのである。


『エッセ・クリティック』より


泣き。
最近読むことと書くことが楽しくて
あれを覚えてしまったサルのような状態だったのに
久々に自分自身にむっとしてしまった。
言語学的な知識が乏しいというだけではなく
この語はどの意味なのか詩人真っ青な重層性を感じてしまう。
ただ単に専門的な語彙力の問題なのか、
何か肌で語を理解していないせいなのか、
辞書をめくって、いつしかめくられ
後に残るは疲労だけといった状態だった。
バルトはテクスト読解に「深さ」より「広さ」を求めているが
彼の文章を読むには皮肉にも「深さ」が必要なのではないか。
何はともあれバルトワールドがあるんだろうなぁ
マラルメワールドがあるみたいに
読みなれることが必要なのだろう。
高校時代よく読んだ小林秀雄の文章を思い出す。
内容はすっからかんだが彼の文章を思い出した。
ぼんやりとしたいんちきくさい
でもなぜか読んでしまうそんな文体。
小林秀雄なら日本語だからいいが
バルトは外人だもんなぁ
ちょっと辛い。
バルトにインチキくささを感じるのも
その昔
『表象の帝国』を読んで
そら ないで おっちゃん☆
という感想を抱いたせいでもあろう。
こういうことはよくあることで
自らの料簡を狭くしているようで
いやなんだが
先だっても常々
お世話になっていた
あのーあれですわ
千冊読みまっせという有名サイト

マラルメの本が取り上げられてて
読みが
うわぁーこうなっちゃうのかぁと
意気消沈したばかり。
全部か?
全部 ほんとはこの調子だったのか?
と思い始め
思い詰めて
己が閉鎖的になってゆくことに
はたと気付き
唖然
呆然
憮然。
じゃあ もっと俺なんか
ひどい状態で
バルトをインチキ臭いなどと言えるのも
門外漢の気安さ
井の中の蛙状態だからでしかないのだろう。


いつもより
無駄に饒舌なこの日に
思い出す格言は
結局のところ
「沈黙は金」
だ。


まぁしばらくはバルトにかまける
別腹もなく
マラルメワールドでおなかいっぱいだ。
とはいえそんなに
少なくともこの部分に関して謂えば
革命的なことを言ってるとは思えない。
既にプルーストヴァレリージードも実証主義批評よりテクストをって批判してるわけだし。
ステマティックな(そう見えるように)分類を行なったことが受けてるんだろうなぁ。
テクスト頼みの主観、印象主義という千鳥足と学問的・科学的手つきの結婚とでも言ったらよいのか。
まあ今日は種まきの日。