レイモン・ピカール「新批評または新手の詐欺」

jedisunefleur2004-08-15



これは我が家の前の大通りの写真。
何が興味深いって
年度末駆け込み工事
ちぃぱっぱ工事は
どこの国もいっしょなんやなぁということではなくて
ちょっとアスファルトはがしたら
石畳が出てくるってことだ。
石畳は光を吸収しないので
すこぶる気分を開放的にしてくれて
よい。
それでもなぜアスファルトなのかといえば
革命の際に
学生が石畳はがして
投げたせいで
危ないってことらしい。
まあ
「ナタリー 君には赤い服がよく似合う」と
落書きしたりした 
どこまでもおされな 
彼らのこと
楽しそうに石畳掘り返し
楽しそうにシュプレヒコールをあげ
その合間に今晩暇?などと
よこにいた娘をナンパでもしつつ
ボサボサのブロンドを乱し乱し
石畳を投げていたのだろう。
先だっての反戦デモのトラックに
DJが乗り込んでたしね。

ふと思ったのが
野球のない国で
「投げる」っていう行為は当たり前のものではないよなぁということだ。
野球未経験者とキャッチボールをすれば
一目瞭然 いわゆる女投げ炸裂なことを思えば
しなやかなブロンドとはいえ
さぞかし皆ぶっさいくな投げ方しとったんやろなぁ、
こんなとりとめもないことを
思いつつ
近所の公園を通り過ぎると
いつもと変わらぬメンバーが集って
ペタンクをやっていた。


ああ そうか
革命は
ペタンク投げだったのか。


こういうの落語で言うと何オチっていうのかなぁ。


それはさておき
今日は
バルトにけんかを売った
大学人のテクスト。
バランスを取るために取り上げる。


文学史は二人ともどもその名を刻んでいる。
ひとりは
いまだもってプレイアード版ラシーヌの編者として
ひとりは二十世紀に欠かせぬ批評家として。

R. Picard, Nouvelle Critique ou nouvelle imposture, pamphlet, 1965.


C’est de bonne foi que la « nouvelle critique » réclame le retour à l’œuvre, mais cette œuvre, c’est l’œuvre littéraire (qu’elle commence par pulvériser en signes), mais c’est l’expérience totale d’un écrivain. De même, elle se veut structuraliste ; toutefois il ne s’agit pas des structures littéraires (qu’elle détruit ou qu’elle ignore), mais de structures psychiques, sociologiques, métaphysiques, etc. Ainsi conçue, ce qu’on appelait traditionnellement l’œuvre littéraire devient un réservoir de documents, de symptômes ou de signes, où la critique puise librement pour ses constructions, ce magasin en désordre, dont il était question plus haut. Elle peut même se dégrader jusqu’à être un simple point de départ, un prétexte. Mais d’ordinaire, elle constitue essentiellement un matériel qui peut servir à tel type de diagnostic de l’auteur, à l’édification de telle forme de philosophie concrète, en particulier une ontologie phénoménologique, etc. Lanson (méconnu ici encore) rapprochait à Sainte-Beuve d’avoir « employé les œuvres à constituer des biographies ». Je ferai observer de même manière que nos « nouveaux critiques » emploient les oeuvres à constituer des phénoménologies, des psychanalyses, des philosophes de l’histoire ou des typologie. Ces tentatives assurément peuvent être intéressantes : le désolant est qu’elle s’accompagne – et la chose est d’autant plus fâcheux qu’il s’agit de critique littéraire – d’une entreprise de destruction de la littérature comme réalité originale.


レイモン・ピカール「新批評または新手の詐欺」


≪新批評≫が作品への回帰を求めることは結構なことだが、この作品たるや、文学作品ではなく(手始めに記号に粉砕しているのだから)、一作家の体験全体なのである。その上、これが「構造主義的」たらんとするのだが、かといって文学的構造のことではなく(破壊したり無視したりしているのだから)、心理学的、社会学的、形而上学的といった構造のことなのだ。こういった考えにより、伝統的に文学作品と呼ばれていたものは資料や兆候、記号の貯蔵庫となり、そこで批評が己を構築するために、整理されていない在庫を勝手気ままに漁る、というのが上で問題にしたことだ。この批評はひとつの単なる出発点、ひとつの口実となるまで成り下がる恐れさえある。だがたいていは、著者の診断の何らかの類型に、そして具体的な何らかの哲学形態、とりわけ一種の現象学存在論といったものの樹立に一役買える一個の「素材」を主として成しているのだ。ランソン(いまだ理解されていないが)はサント=ブーヴを「伝記を成すために作品を用」いたと非難していた。私も同じように言わせてもらえば、我らの≪新批評家たち≫は現象学に、心理分析、歴史哲学に類型学を成すために作品を用いているということだ。こういった試みは確かに興味深いことであるかもしれないが、残念なことに―そしてことが文芸批評だけに厄介なことに―元の現実としての文学への破壊工作が相伴っているのだ。