モーリス・ブランショ『焔の文学』より

jedisunefleur2004-08-25



[写真]ピカソ美術館にて。
これを見て
「芸術?アート?なんだいそれ?」
という声が確かに聞こえました。


本題


そら、
「ワイも言いたいことあるでぇ。」
が、
言いたいことありすぎて
何から言ってよいのやら。
いやはや
にわかに
悪いお知り合いが増えてしまった。


昨日トゥールから親友がやって来た。
彼はいつもお土産をくれる。

まずは俳句をやっている彼から
とっておきの句を見つけたということ。
お前なら絶対気に入るということで、
パリはすこうし涼しくなったけれど
夏の句だ。


「きんたまのおきどころなき暑さかな」


残暑お見舞い申し上げます。


それから
シャルル=ルイ・フィリップという短編作家について。
20世紀初頭の
文学史ではなかなかお目にかかれない作家だが
最近、訳されたそうだ。
この作家の物語を彼は語って聞かせてくれたのだが、
いやそれがなんとも
瞳が滲むほど味わい深く、
これは
よんどかな
また犬死に度を増やしてしまうことになる!と思ったので
皆、読め。


また別に、私が用意していた質問
ロラン・バルトってどうよ?」
にもなかなか興味深い答えを返してくれた。
最近、誰彼となく友人どもにこの質問ばっか浴びせているのだが、
正直、我々の世代にバルトと聞いて
いい顔をする人はいない。
うん、これは歴史的なやむを得ぬ流れだろうと。
もはやバルトが素晴らしいことをいってるか否かが問題なのではなく
流れに乗れなかった以上、今更。。。
といったわりと感情的な動機かと思っている。
次世代に丸投げなわけだ。
俺はあきらるつもりはないが。
それで
その親友がボヌフォアを専門にしているのでなおさら興味を持って尋ねたのだ。
なにせ、タディエによると
記号論の限界、それからボヌフォアの先祖がえり的な批評活動といった
流れの中で、この親友はどう認識しているのか?という
現代フランスの文芸批評の流れにモロ響いてくる答えが期待できるからだ。
彼は誠実だった。
確かにボヌフォアは記号論という方法論を今更取るようなことはしない。
だからといって、バルトを否定しているわけではない、
けれど、批評史の流れはお前の言うとおりの認識やから(彼は北陸出身なのでこれまたパリのど真ん中で関西訛だ。蕁麻疹出そう)、
バルトの何も大して知らず、
無視して進んでしまう、
それは研究者としてはどうかと思う、
といった内容だった。
それでは、なぜボヌフォアがバルトの晩年の写真論『明るい部屋』を
評価してるのか説明がつかないじゃないか。と。

う〜む。なるほど。

またさらに
興味深いおみやが。
とはいえ、
これからの話は
フランス語をやったこともない人にとっては
Nul(意味無し芳一)
だし、
会話にも
発音の問題とは言え
恐らくマニアックだろうから役には立たないだろうし
もちろん書くことや読むことなんてまーるで関係のない
フランス語の話なのであしからず。
さてこういった話だ。
彼がフランス人の友人と映画の話をしていたところ、
黒澤明の話になって
そのフランス人が『羅生門』を一番(お、気があうね)と言ったという。
そのときの発音が
ラショーモンーーだったと真似してみせるのだが、
ンーーのところで
その親友は確かに鼻の穴を大きく開いて腹の底から音を出していた。
それをみて、最近気にしている発音の問題にリンクしてるなぁと思って
イジワルクイズを出してやった。
紙を引っ張り出し、愛用の万年筆で
四つ単語を並べた。
Eden(エデン)
Bergson
Enivrer(酔わせる)
Hymen(賛歌、処女膜)
が以上である。
カフェで紙を指差し、
これ読んでみぃと言ったところ
順に
エダン、ベルグソン、エニヴレ、イメンと彼が読んだのを聞いて、
はい、フランス式で5点。とニタニタしながら言ってやった。
さすがに詩人を専門にしてるだけあって
Hymenはイマンではなくイメンだと知っているので、
どうやらそこから類推したらしく、
不思議な顔して
エダンちゃうんか?エデンなんか?
せやけどベルグソンとエニヴレはどこがどうなるんや?という。
誇らしげな我輩とて、なんのことはない、
つい最近、ラジオでエデンと発音されたのが耳に飛び込んできて
なんで?エダンちゃうのん?と辞書を調べた挙句、
フランス人に聞いたから知っているだけの話だ。
実はエデンもベルグソンも末尾のnは鼻母音ではなく
普通のnなのだ。
フランス人に発音させると、
もはやヌに聞こえなくもない。
そんな発音なら
Edène Bergson(n)eじゃないか?
(カタカナで書いたらエデーヌ、ベルグソーヌ)
まったくそうだ、原則的に記せばそうだ、という。
Ebène(「漆黒」の雅語、エベーヌ)という、詩なんかでよく使われる単語あるでしょ?
あれと同じよという説明だった。
それで
羅生門もラショウモヌになってたのかもしれないなぁと。
ちなみに、
酔わせるの発音も異常で
エニヴレではなくアンニヴレだ。要するにen+n+ivrerという意識になっているのだ。
そう、ボードレールの「酔いたまえ」は「アンニヴレ・ヴ」になる。
さらに落ちとして言っておくなら
ベルグソーヌはこれでもまだ厳密ではない。
ベルクソーヌBerksonが正式らしい。まぁベルギー人ですから。
そのフランス人も、文学も哲学も修めている人ではない
一介のマダムだけれど
ベル「ク」ソーヌっていってたから恐らく広く流通している発音だと思う。
とはいえ、エデーヌとかベルクソーヌとか書いて失笑を買っても
当方、一切責任をおいません。
ベル「ク」ソンとは書くだろうけど。


いやいや今日はほんとに昨日の日記を記したまでだ。
今日の引用はそんなこととはまるで関係がない。
少しでもマラルメのおっちゃんを知って欲しいということで
これまでも幾つか折に触れ文章を引っ張り出してきたけれども
今日のはとりわけ有名な一節を
有名な解説付きで。
私のことは忘れても
この一節は意識の片隅に置いていて欲しいかなと思っとります。
とはいえ、そう簡単には理解してもらえないでしょうが。

「私が花!と言う、すると私の声がどんな輪郭も遠ざけることのない、忘却の外へ、よく知られる花々とは別の何物かとして、音楽的に立ち上るのだ、理想〔イデー〕そのものであり馥郁たる、どんな花束にも存在しない花が。」〔『詩の危機』〕わかりきった事だが、全てがそうは単純ではないのだ。語は対象を遠ざける、「私が花という!」すると私の目の前には花も、花のイマージュも、花の思い出もなく、花の不在があるのだ。「黙せし対象」。併しながらこの不在は他の物の徴、例えば、万人に常時価値を有する、古典的な意味での真理の徴なのだろうか?結論を急ぐことはない。抽象的な語、「<よく知られる>花々、<イデー>」を用いているにもかかわらず、詩人とは知識に対して何も求めない地平にあるということがかすかに感じられるのだ。一つの対象の現実的な不在に、そのイデア的な現存を置いているわけでもないのだ。「馥郁たる」そして「音楽的に」といったものは断じて、その方法によって明らかにされる知的概念ではないのだ。逆に、言うならば、再び我々がここで現実と接触しているのであり、しかも現れれば蒸発し、了解されれば消滅する、もっと移ろいやすい現実であり、レミニッサンスや仄めかしからなるもので、こうして一方で現実が廃棄されるにせよ、もう一方では、現実がそれによって空虚を満たそうとするような抽象的な意味ではまさしくなく、はかなく不安定な一連のニュアンスのように、優れて知覚可能な形態において現実が再び現れるのである。


モーリス・ブランショ『焔の文学』「マラルメの神話」より


« Je dis : une fleur !et, hors de l’oubli où ma voix ne relègue aucun contour, en tant que quelque chose d’autre que les calices sus, musicalement se lève, idée même et suave, l’absente de tous bouquets. » Nous le voyons, tout n’est pas si simple. Le mot écarte l’objet, « Je dis : une fleur ! » et, je n’ai devant les yeux ni une fleur, ni une image de fleur, ni un souvenir de fleur, mais une absence de fleur. « Objet tu ». Cette absence est-elle cependant le signe d’autre chose, de la vérité, au sens classique, par exemple, ayant valeur pour tous et en tout temps ? Ne nous hâtons pas de le conclure ; malgré l’emploi de mots abstraits : « calices sus, idée », il est à pressentir que le poète est dans un ordre qui ne demande rien au savoir. A l’absence réelle d’un objet il ne substitue pas sa présence idéale. « Suave » et « musicalement », ce n’est assurément pas un concept intellectuel qui s’affirme par ces voies. Au contraire, nous le remarquons, nous voici à nouveau en contact avec la réalité mais une réalité plus évasive, qui se présente et s’évapore, qui s’entend et s’évanouit, faite de réminiscences, d’allusions, de sorte que si d’un côté elle est abolie, de l’autre elle réapparaît dans sa forme la plus sensible, comme une suite de nuances fugitives et instables, au lieu même du sens abstrait dont elle prétend combler le vide.

Maurice Blanchot : La Part du feu, nrf, 1972.


毒に毒を盛るようなことをして申し訳ないんだが。。


こんな糞訳文ではさっぱりわかりませんというお方がいらっしゃれば
是非に、フランス語を学んでください。


デリダの盟友でありやはりユダヤ人のモーリス・ブランショ
難解であるのかもしれないが、
その実、フランス語は素朴でさえあるように思う。


『焔の文学』という邦題が付いているがこれは苦肉の策だろう。
どこで聞いたか読んだか忘れたので
これから言うことは
ひょっとしたら何かと勘違いしてるかもしれないので
人に自慢しないで欲しいのだが
火事になったとき、延焼を防ぐためにその周辺に火を放つという
火消し方法があるらしく、
その周辺の火のことをPart du feuって言うとか言わないとか。
誰かソース見つけたら報告していただけるとありがたい。



[ゴキジェットを食らわされたゴキブリ並みに足をピクピク痙攣させてしまいそうだったぜ文法ノート]


・hors de l’oubli où ma voix ne relègue aucun contour : 一行目のマラルメの引用箇所。多分だが、« où »は « hors »にかかります。「忘却」ではなく。多分なので、ネイティヴに聞いてみよってところなんですがね。前からわからんわからんとほったらかしにしてたが、この都度、『朝倉文法事典』に以下のような例文を見つけた。


≪場所の前置詞+[代]名詞+où ≫ : Elle regardait…devant elle où il n’y avait pourtant que la route sans promeneurs…(Loti, Ramantcho)[彼女は自分の前を眺めていた。とはいえ、そこにはそぞろ歩きの人の姿も見えぬ道があるばかりだった]。