ボードレール「ラ・ファンファルロ」

jedisunefleur2004-08-26



[写真]サンドイッチ・グレック(ギリシアサンドイッチとでも言ったらいいのかな?)
羊の肉を挟んだサンドイッチでこれがうまい。
たいてい4ユーロだ。
マクドナルドなんてはやるわけない。
奥に控えているのがパナシェという飲み物。
ビールのレモンスカッシュ割りといったところのもので
これまたうまい。狐につままれたんじゃないかというぐらいうまい。
今夜、あの娘を口説きたい!というときにふるまえば、吉かと。
それぐらい飲みやすいのです。
ええ、こんなのインチキアルコールだって!ぐらい。


さて。
ふつうのおじさんとしてのデリダか。
ふつうのおじさんとしてなのだから
自分自身の経験と比較してもそんなに罰当たりなことではないだろう。
あの記事(id:fenestraeさんち及びid:temjinusさんち)のデリダ
単語をもて遊ぶかのように哲学を構築してゆく
いつものデリダではなく
実にヒューマンな思考で語っていたので
本当に感動した。
それに
「フランス語は私のものではない」といった言葉は
そのまま私自身に跳ね返り
色々なことを思い起こさせた。
ここだけの話[ワラ]、
私は訛っている。
訛っているんだが、Tokioに8年も住んだ。
人生の三分の一はTokio人だったわけだ。
しかもレジのバイトを7年もやった。
だから標準語をしゃべろうと思えばしゃべることができる。
もちろんレジでは標準語だった。
どえらい人にも標準語になる。
緊張すればするほど標準語になるわけだ。
こういうときは「標準語は私のものだ」と言ったところだろう。
「私のものだ」と意識しないぐらい「私のもの」なわけだ。
友人と話すときは訛りだ。それが誰であれ訛ってしゃべる。
そのときは当然関西弁が「私のもの」で標準語が「私のものではない」わけだ。
会話中に標準語を差し挟むということも行なうが
何らかのコノテーションをつけるためだ。
「お、それカッコいいじゃん」と言うと
それは皮肉であり
「今のムカツクよねぇ」と言うと
冗談ですよという意味作用が起こるという
便利なツールだ。
「愛してるよ」なんていうと
「うさんくさ!」という答えが帰って来る。
けれど、
大阪に帰っても、例えば、コンビニで「袋、いいです」というとき
標準語のイントネーションで言わずにはおれないのだ。
頭の中では「袋、いいです〜」という関西形も頭にあるんだが
どうしても言えないのだ。
このとき関西弁はもはや「私のものではない」といった感じがモロモロオカなのである。
それに下世話な話だが
夜の催し物のときは
標準語が「私のもの」とアピールする。
普段は関西訛りなわけだから
このときだけ標準語でもそれは気色の悪い話に違いない。
違う、標準語は私のものではない、お前はどっか行ってろよ!と頭と体がまるで別のことで戦っている気分にもなる。
人生唯一の大真面目な時なのに、そこにおいても、
危うく笑い出してしまいそうになるのだ。
だからって、ドヤ!ドヤ!とかは言いませんよ。
すまない、つまらないわたくしごとで。


もうひとつ「ワイにも言わせろ」と思ったことは
天神茄子(id:temjinus)さん、まったくの図星なのだが、
例のグルマンとボードレールの関係についてだ。
貧乏人はサンドイッチグレックを食え!と言って憚らぬこの「ワイ」が
グルメの話に混ぜてもらうことができるとは
すごいコミュニティーですよ、はてなってところは。
スジャク(id:sujaku)さんが
ボードレールの批判は公平さに欠いてるといった指摘、
それから、なんと義父オーピック
ボードレールは革命の折、嬉々として先頭切って、オーピックを倒せ!オーピックを倒せ!と叫んだという)を引き合いに出してくるところなど
実に興味深い意見だと思ったのだが、
私の興味は、公平さに欠いている部分、
端折られた部分が真っ先に気になった。
バッカスの件である。
いや、とはいえ、何も私自身が意見を出そうととは思っていない。
こういうことも言ってますよ程度のことなのだが。。。
ボードレールにとって
バッカスの杖は、
天才もしくは詩の象徴であり、
かなり重要度の高い、アイテムであったことには違いない。
往々にして、文学者の引用というのは、もうどうしようもなくいい加減
ボードレールマラルメサルトル辺りで結構うんざりさせられる、このフランス野郎と頭の中で怒号、怒号ですよ)だとは言え、
それを端折るか、おい。君ならいつものように皮肉たっぷり揚げ足取るところだろうにと言ったのが最初の感想だった。
私としてはバッカスというモチーフのほうがはるかに興味深く、
実は以前も、この杖にまつわる文章を引っ張り出そうと思った
(例えば、『パリの憂愁』にある、リストに捧げられた一編「バッカスの杖」)
のだけれど
またの機会ということで
今回はまた違う箇所を引用しようと思う。
さて、
「矛盾する権利」とはボードレール君、よく言ったもので
1860年に『人工楽園』で罵倒したブリア=サヴァランを
実は君、若かりし頃、かなり参考にしていただろ?
といった記述を見つけた。
極めて名高くない彼の小説『ラ・ファンファルロ』(初出1847年)においてである。
ここまで露骨だとひょっとしたらボードレールとブリア=サヴァランを絡めた論文があるかもしれない。

サミュエルとラ・ファンファルロは料理と選り抜きの人間に必要な食事のあり方についてまさに考えを同じくしていた。とるにたらない肉、味気ない魚など、このような魅惑的な夕食からお払い箱だ。シャンパンが食卓の品位を貶めることはそうそうありやしない。この上なく名高くこの上なくかぐわしいボルドーワインだってブルゴーニュワインや、オーヴェルニュやアンジュそれに南部のワイン、外国産の、ドイツやギリシャ、スペインのワインといった重厚で濃縮な隊列に道を譲っている。一杯の真のワインは一房の黒ぶどうに似ているべきで、それに中に飲み物のみならず同じく食べ物があるのだというのがサミュエルの口癖であった。――ラ・ファンファルロは血の滴る肉と酔いを運んでくれるワインを好んでいた。――そもそも、酔うことなどなかったのだが。――二人ともどもトリュフへの真摯で深い敬意を表していた。――トリュフ、キュベレによるひっそり隠れた謎めいたこの植物、キュベレがその腹の中にこの上なく高価な金属よりも長く隠したこの味わい深い病、黄金がかの偉大なパラケルススの学問にそうであるが如く、農業狂いの学問に刃向かうこの妙なる物質、トリュフは、古代世界と現代世界を区別し(原注)、一杯のキオス酒の前に、数字の後の幾つものゼロである効果を持っているのだ。


(原注)ローマ人のトリュフは白く、別種であった。(訳注)


(訳注)[プレイアード版全集の記述を日本語にしたもの]トリュフにまつわるこの箇所はブリア=サヴァランの『味覚の生理学』からである。「ローマ人はトリュフを知っていたが、フランス種がここまで遡ることはできないように思われる。彼らが舌鼓を打っていたものはギリシャ、アフリカそして主にリビア産であり、それは白かったり赤みがかったりしており、[中略]。ローマ人から我々に至るまで長い空白期があったのだ[後略]」(1886年版、Dentu、72頁)。


Samuel et la Fanfarlo avaient exactement les mêmes idées sur la cuisine et le système d’alimentation nécessaire aux créatures d’élite. Les viandes niaises, les poissons fades étaient exclues des soupers de cette sirène. Le champagne déshonorait rarement sa table. Les bordeaux les plus célèbre et les plus parfumés cédaient le pas au bataillon lourd et serré des bourgognes, des vins d’Auvergne, d’Anjou et du Midi, et des vins étrangers, allemagnes, grecs et espagnols. Samuel avait coutume de dire qu’un verre de vrai vin devait ressembler à une grappe de raisin noir, et qu’il y avait dedans autant à manger qu’à boire. —La Fanfarlo aimait les viandes qui saignent et les vins qui charrient l’ivresse. – Du reste, elle ne se grisait jamais. -- Tous doux professaient une estime sincère et profonde pour la truffe. – La truffe, cette végétation sourde et mystérieuse de Cybèle, cette maladie savoureuse qu’elle a cachée dans ses entrailles plus longtemps que le métal le plus précieux, cette exquise matière qui défie la science de l’agromane, comme l’or celle des Paracelse ; la truffe, qui fait la distinction du monde ancien et du moderne*, et qui, avant un verre de Chio, a l’effet de plusieurs zéros après un chiffre.


(*) Les truffes des Romains étaient blanches et d’une autre espèce. (1)


(1) Ce passage sur la truffe provient de la Physiologie du goût de Brillat-Savarin : « Les Romains ont connu la truffe ; mais il ne paraît pas que l’espèce française soit parvenue jusqu’à eux. Celles dont ils faisaient leurs délices leur venaient de Grèce, d’Afrique, et principalement de Libye ; leur substance était blanche ou rougeâtre, (…). Des Romains jusqu’à nous il y a eu un long interrègne (…) ». (édition de 1886, Dentu, p.72).


今日は答えあわせができる。
しかしね、
う〜ん、阿部先生を前代未聞空前絶後の学者として
顔も知らないけど尊敬してやまないのだが、
納得いかないところがいくつかあった。
なんでそもそもラ・ファンファルロって訳したのか?わかってやったんだろうけど、
恐らく、ファンファルロが踊り子であるといったところから、
「ラ」は歌手や女優につける定冠詞かと思われる。
要するにファンファルロ嬢といったところじゃないかなぁと。
それから一文目以降、先生は典型的な半過去形に訳されておられるが(〜であった、〜であった)、
私としては、前文の「考え」の具体的内容の列挙であって、
むしろ自由間接話法に近いんじゃないかと思った。微妙なんだけども。
それとcharrierという動詞、「酔いなど吹き飛ばす」としたところは、
先生は酔いを「運んでくる」と訳されてる。
Charrierと聞くと、どっぱーって押し流されてどっかいっちゃうっていうイメージだったんだけど、こっちに来る方向でも使えるのか?という疑問。「吹き飛ん」じゃうほうが、次の「そもそも」につながりがよいのではないかと思うのだが、恐らく、おれがまちがってんすよ、どうせ、いつものことだ。フランス人に聞くか。


ちなみに、この間、ボードレール研究者に「ボードレールって文章下手っすよね」と口を滑らせて、しまった大放言!と後悔してるところに、「そうだよ」って当たり前のような口調で答えが帰ってきた。こんな二人に天罰を。


そんなことより、ここの興味は、ボードレール、てめぇ、ブリア=サヴァラン、愛読してるんじゃねーか!ということだ。


参考
・ふつうのおっさんとしてのデリダの記事
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/?of=3
及び
http://d.hatena.ne.jp/temjinus/
(8・25の記事)
・食いしん坊ブリア=サヴァランとボードレールに関する記事
http://d.hatena.ne.jp/sujaku/?of=2
(8・17〜)
http://d.hatena.ne.jp/temjinus/
(8・22及び25の記事)