サルトル『汚れた手』


先日
馬に
轢かれかけた。
例の如く
ぼけぇ〜っと信号を待っていると
ぼけぇ〜っとしていなければ
確実に気付いた馬の闊歩する音に
まったく気付かなかったのだ。
はっとしたときは左上方に
目も歯茎もひん剥いて私を見下ろす馬がいた。
彼にまたがる婦人警官が手綱を引いていたので
パードンと馬に言うでもなく警官に言うでもなくつぶやいて
あ〜日本じゃないな、と反省もそこそこに思ってしまった。
あ〜日本じゃないな、と思うと必ず、
21世紀の仕草ではないけれども
ほっぺをつねりたくなってしまう。
夢ではなかろうか、と。
ねぼけてるんではなかろうか、と。
とはいっても、何か信じられないぐらいいいことが起こったので
ほっぺをつねって確かめるというのではなく
もっとニュートラル、というか、なんとならばもっとネガティヴな感覚だ。
おれは、いま、ここに、なんでいるのか?
はるばる遠く、海越え山越え空越えて、なんでここにるのか?
という自己への違和感のせいなのだ。
5W1Hが芋づるになって私をがんじがらめにして
なぜのなぜに危うく狼狽しそうになってしまう。
しかしそこは齢三十の男、
もはやそんな繊細さを持ち合わせておらず、
将来への薄ぼんやりとした不安の
どどめ色したどん底に叩きつけられる前に
なぜのなぜなど諦めるタイミングのよさを身に付けてしまっているのだ。


サルトルの『嘔吐』てゆか
正確には『吐き気』は
名作かどうか、
それが実存主義的なのかどうか
知らないけれど
私にとっては代弁者的な青春の書でありました。
物心ついたときから
ひょんなことで
生きているという実感と共に
その理由の不確かさ
生きていることの卑小さなどを感じて
吐き気とは言わないまでも
非常に暗澹とした気分に襲われたものです。
とはいえ年端も行かぬ子供の頃の感覚ですから
なんだかんだ言ったところで
後付でしかないのですが
忘れることのできない嫌な感触ではありました。
親しい友人に打ち明けたところで
共有できたという経験もありませんでしたが、
忘れることのできない感覚なので
年とってそんな感性が死に絶えつつある時期に
この本に出会ったとはいえ、
その衝撃は忘れることはできません。
ひょんな理由で
吐き気を催す
ただそれだけの小説が存在したという共有感覚だけで充分でありました。
へたすりゃサルトルを専門にしていたかもしれませんが
あたしゃ思想書の類をあんまり立派に読み取れないので
どっちにしろ避けて正解だったでしょう。


余談。
サルトルマラルメの関係は
歴史上に現れないほどのものがあるようです。
なかなか難しい研究テーマなのですが。


例の嫁はんの証言によると
詩人嫌いのサルトル
何万ページものマラルメ論を記していたそうです。
アンガージュマンの思想はマラルメから出たというのです。
少なくともあの「虚無」という概念から。
彼のマラルメ論は一部発表されて
ちくま文庫にも訳されておりますが
この本の実態は
ニーチェよりも巧みに神なき道を生きた」などと
かっちょいい文言がちりばめられているとは言え
マラルメ研究というよりも第二帝政後の若き文学者たちの精神史といったもので
専門家には少々物足りないところはあります。
なぜこんないびつなマラルメ研究書しか出回っていないのか。
大部分、
自宅がテロの被害にあったとき
燃えて消えてしまったからです。
マラルメを研究すれば呪われるといった理由のひとつに挙げられる事件なのでした。
最近は大丈夫なようでこの間、ちゃんとした全集が初めて完結しました。
ちなみに日本語訳の全集は
永久に完結しません。
一巻が永久に出ないといわれているのです。
理由は、韻文が訳せないから。


というわけで
ここのところ視聴覚もんにリキ入れてるので
『汚れた手』。
ちゃんと聞き取れないせいもあるでしょうが
個人的には
単なる青臭いコミュニストの風刺劇のようにしか見えません。
とはいえ興味のある方、
今ならフランスのその手のサイト(FNAC)とかで探せば
DVDで手に入るかと思います。
もちろん字幕なしですが、
台本なんてすぐに手が入るわけだし
どうでしょう。
演劇ものはすぐになくなってしまう印象があるので
お早めに。
今回は台本を見比べらながらも
DVDでの台詞を日本語にしてみた。


≪あらすじ≫
1943年3月、ドイツ軍は退却を始める。
三つの政治勢力が占領地、イリリー(中央ヨーロッパに位置する架空の国)を支配している。
右派とレジスタンスを展開したブルジョワコミュニストがそれだ。
左派のウドゥレールは解放に当たって
暫定的に右派と手を結ぶのが得策だと考えるが
仲間は彼が裏切ろうとしていると思い
ユゴーに暗殺の命を下し
その秘書になりすます。
ウドゥレールは初め彼を疑うが
その人柄を知り
彼に柔軟な対応の必要性を説く。
それでもユゴーは迷いながらも彼を殺してしまう。


出所すると党が結局のところ
ウドゥレールと同じ道を歩んでいることを知り
コミュニストたちと共に働くことを拒絶した
彼は。。。

ユゴー
彼は酒を飲みタバコを吸い、俺に話すんだ、先のことも彼は考えている、そのとき俺は彼の入る墓のことを考えているのだ、いやらしいことだ。彼の目を見たか?


Hugo : Il boit, il fume, il me parle, il fait des projets et moi je pense au cadavre qu’il sera., c’est obscène. Tu as vu ses yeux ?


ジェシ
見たわ。


Jessica : Oui.


ユゴー
どんなにいかつくてぎらぎらした目をしてるかを?生き生きとしている目を?


Hugo : Tu as vu comme ils sont durs et brillants ? Et vifs ?


ジェシ
ええ、見たわ。


Jessica : Oui.


ユゴー
おそらく目に向かって俺は引き金を引くだろう。腹を狙んだ、そう、だがその武器が上を向く。


Hugo : Peut-être dans ses yeux que je tirerai. On vise le ventre, tu sais, mais l’arme se relève.


ジェシ
私、彼の目が好きなのよ。


Jessica : j’aime ses yeux.


ユゴー(だしぬけに)
やっかいだな。


Hugo, brusquement : C’est abstrait.


ジェシ
何?

Jessica : Quoi ?


ユゴー
つまりだ、殺人ってやつはやっかいだってことだ。お前が引き金を引く、するとそれからはもう何が起こるかわからないんだ。(一拍置いて)顔をそむけて引き金を引くってのはどうだろう。ジェシカ!お前ならどうする?もうこの世にお前しかいないんだ!


Hugo : Un meurtre, c’est abstrait. Tu appuies sur la gâchette et après ça tu ne comprends plus rien à ce qui arrive. Un temps Si l’on pouvais tirer en détournant la tête. Jessica ! Qu’est-ce que tu ferais ? Je n’ai plus que toi au monde!


ジェシ
私なんかに私があなたならどうするってことを聞いてるの?私ならウドゥレールに会いに行くでしょう、それからこう言うわ、「ここにこうしてあなたを殺しによこされたのよ、でも気が変わったわ、あなたと手を組みたいの」って。


Jessica : Tu me le demandes à moi ce que je ferais à ta place ? J’irai trouver Hoederer et je lui dirais : on m’a envoyé ici pour vous tuer mais j’ai changé d’avis et je veux travailler avec vous.


ユゴー
かわいそうなジェシカ!


Hugo : Pauvre Jessica !


ジェシ
何?できっこない?


Jessica : Quoi ? Ce n’est pas possible ?


ユゴー
まさしく裏切るってやつだろう。


Hugo : C’est justement ça qui s’appellerait trahir.


ジェシカ(悲しそうに)
そんな!何も言えないわ。(一拍置いて)できっこないの?考え方が違うから?


Jessica, tristement: Tu vois! Je ne peux rien te dire. Un temps Ce n’est pas possible ? Parce que il n’a pas tes idées ?

ユゴー
そうだな。考え方が違うからだ。


Si tu veux. Parce qu’il n’a pas mes idées.


ジェシ
じゃあ考え方が違えば殺さないといけないわけ?


Jessica : Et il faut tuer les gens qui n’ont pas vos idées ?


ユゴー
時によってはな。

Hugo : Quelquefois.


ジェシ
だったらどうしてオルガとルイの考えを選んだわけ?


Jessica : Pourquoi as-tu choisi les idées d’Olga et de Louis ?


ユゴー
正しいからだ。


Hugo : Parce qu’ils sont vrais.


ジェシ
仮に、ユゴー、ルイじゃなくて、ウドゥレールに出会ったとしたら。彼の考えこそが正しく思えるでしょうに。


Jessica : Suppose que tu ais rencontré Hoederer au lieu de Louis. Ce sont ses idées à lui qui te sembleraient vraies.


ユゴー
それじゃあまるで、すべての意見は同等で、病気かなにかになったかのようだな。


Hugo : On croirait à t’entendre que toutes les opinions se valent et qu’on les attrape comme des maladies.


ジェシ
ユゴー、彼はとっても毅然としてる、口を開くだけでいいのよ、もちろん彼が正しいとしての話だけど。


Jessica : Hugo, il est si fort, il suffit qu’il ouvre la bouche pour soit sûr qu’il a raison.


ユゴー
彼の言うことなんて、どうでもいい。重要なのは彼がやっていることだ。


Ce qu’il dit, je m’en moque. Ce qui compte c’est ce qu’il fait.


ジェシ
でも…


Jessica : Mais…


ユゴー
≪客観的に≫彼は社会謀反人のように行動しているんだ。


Hugo : Objectivement il agit comme un social-traître.


ジェシカ(理解できずに)
客観的に?


Jessica, sans comprendre : Objectivement ?


ユゴー
そうだ。


Hugo : Oui.


ジェシ
じゃああなたが企んでいることを彼が知れば、あなたが社会謀反人だと思うでしょうね?


Jessica : Et, s’il savait ce que tu prépares, est-ce qu’il penserait que tu es un social-traître ?


ユゴー
それがどうした。多分そうだろうがな。


Hugo : Peu importe. Probablement oui.


Jean-Paul Sartre, Les Mains sales, Cinquième tableau, scène 2.

何これ?ミスプリ?的ノート。
・≪pour soit sûr qu’il a raison.≫
不明。よってネイチヴに今度聞いてみる。