おフランスのハムレット1


もし純文学というものがあるとするなら
純文学の最初って何なのだろう?と考えてみた。
最初といっても歴史的な最初ではなくて
書き手にあるべき最初の状態のことだ。
言い換えれば
純文学のエデンってどんな状態だろう?ということだ。
やっぱりエデンのように
最早ありえぬぐらいナイーヴに考えれば
自分のために書くということではないのか?ということで自分を納得させている。
苦行みたいなもんじゃないか?と。
そんなことを考えていると、
やるかやらぬかそれが問題だ、という新説が出ているそうだけれど
それは置いておいて
生きるか死ぬかそれが問題だ、と根源的な台詞をしゃべらせる
シェークスーピアのハムレットがなおのこと興味深くなってくる。
と同時に、以前クリステヴァの『詩的言語の革命』を
寝そべり、べそかきパラパラめくっていると
まさに「生きるか死ぬか」の部分がフランス語訳で引用されていて
のんきな引用だなぁと羨ましがりながらも
「生きるか死ぬか」の部分がエートル、ヌ・パゼートルと訳されていることに
ほうっと目がいった。
逐語訳すれば、「存在するか、存在しないか」それが問題だ、となる。
もちろん、フランス人の意識のうちには
ちょっとした文彩でしかなく、
生きるのか、死ぬのかが問題なんだなぁと咀嚼していることだろうと思うのだが
ガイジンにとってはこれはちょっといろんな訳に目を通しておきたいなというのと同時に
おフランスハムレットってどうなのかまとめてみたいなぁと思い至ったわけなのである。

シャトーブリアンとかスタンダールも興味深いけれど
またの機会にということで
今日はユゴーの『ウイリアムシェークスピア』より。
とはいえ、この本を眺めているうちに
極めて個人的な興味に流れてしまった個所を
ウォーミングアップとして保存しておきたい。
この本には様々な側面があるのだ。
もちろんシェークスピア論であるには違いないが
天才論
創作論
聖書論
とまぁご多分に漏れず言いたい放題なのである。
ユゴーという人は蛇口をひねるように文章を記せた人で、
こういう作家を読むにあたって往々にしてあることは
流し読みしやすいということだ。
例示の羅列というフランス的特徴がふんだんに現れているのである。
今回の個所は
ハムレットのハの字も出てこないが
マラルメアンには実に興味深い内容なので
要するに100パー個人的興味から日本語にして貼り付けさせてもらう。
今日のキーワードは「典型」。
創作上、とりわけ重要な要素として論じられている。


ある作家しか知らないという恐怖は
どれもこれもその作家のオリジナルとみなしかねないということだ。
イの中のカワズ大海を知らずとも言えるし、
トラのイを借るキツネとも言えるかもしれない
そんな恐怖だ。
マラルメの鍵語としても「典型」というのがある。
「典型」をうんぬんするのはマラルメだけじゃなかったという驚きというか
イを借っていた俺ギツネにあたふたしたのだ。
なので極めて個人的興味なのだが
やはり純文学のエデンってどんな?という問いにまったく関係のないことではないだろう。

 直接の神による創造からアダムが出てくる、祖形である。間接の神による創造から、すなわち人間による創造から、他のアダムが出てくる、典型である。

 ひとつの典型はいかなる個別の人間をも復元しているのではなく、まさしくいかなる個人にも重ねられないということであり、人間の形で、性格や精神の類を全て要約し集約しているのだ。典型は縮約するのではなく凝縮するのだ。それはひとつではなく、全てなのである。アルキビアデスはアルキビアデスでしかない、ペトロニウスペトロニウスでしかない、バッソンピエールはバッソンピエールでしかない、バッキンガムはバッキンガムでしかない、フロンザックはフロンザックでしかない、ローザンはローザンでしかない。だがローザン、フロンザック、バッキンガム、バッソンピエール、ペトロニウスそれにアルキビアデスを掴み上げよ、そして夢の擂鉢に彼らを畳み込んでみよ、そこからひとつの亡霊がでてくるのだ、彼らすべてよりリアルな亡霊、ドン・ジュアンが。高利貸しをひとりひとり取り上げてみよ、彼らのうちのいかなる者も、「テュバルよ、二週間早いが巻き上げて来い、払わなければ、やつの心の臓を頂戴してやろうぞ」と叫ぶかの業突く張りなヴェニスの商人ではないのだ。高利貸しを塊で取り上げてみよ、その群れから出てくるのが、ひとつの全体、シロックだ。高利貸しを合計すれば、それがシロックだ。間違えのない民衆のメタファーが、そうと知らずに詩人の創意を固めるのだ。シェークスピアがシロックをつくるうちに、その創意が業突くを創造するのだ。シロックはユダヤ野郎で、ユダヤ教でもある。つまり彼の国のすべて、高貴なるものも下層なるものも、信心も詐欺も、かくのごとく、虐げられし人種そのままをすべて要約したがために、シロックは偉大なのである。もっとも、ユダヤ人たちは、中世のユダヤ人でも、彼らのひとりならずシロックとは限らないと言うのはもっともなことだし、放蕩者が、ひとりならずドン・ジュアンとは限らないと言うのはもっともなことだ。オレンジの葉はいかなるものも噛んでみたところでオレンジの味はしない。しかしながら深いところで類似しているし、根本ではしっくりくるし、同じ源の樹液を摂取し、生以前に同じ地下の闇を分かち持っているのだ。果実には木の神秘があり、典型には人類の神秘があるのだ。故にこういった典型の奇妙な生があるのである。

De la création divine directe sort Adam, le prototype ; de la création divine indirecte, c’est-à-dire de la création humaine sortent d’autres Adams, les types.
Un type ne reproduit aucun humain en particulier ; il ne se superpose exactement à aucun individu ; il résume et concentre sous une forme humaine toute une famille de caractères et d’esprits. Un type n’abrège pas, il condense. Il n’est pas un, il est tous. Alcibiade n’est qu’Alcibiade, Pétrone n’est que Pétrone, Bassompierre n’est que Bassompierre, Buckingham n’est que Buckingham, Fronsac n’est que Fronsac, Lauzun n’est que Lauzun ; mais saisissez Lauzun, Fronsac, Buckingham, Bassompierre, Pétrone et Alcibiade, et pliez-les dans le mortier du rêve, il en sort un fantôme, plus réel que eux tous, don Juan. Prenez les usuriers un à un, aucun d’eux n’est ce fauve marchand de Venise criant : Tubal, reteins un exempt quinze jours d’avance : s’il ne paye pas, je veux avoir son coeur. Prenez les usuriers en masse, de leur foule se dégage un total, Shylock. Additionnez l’usure, vous aurez Shylock. La métaphore du peuple, qui ne se trompe jamais, confirme sans la connaître, l’invention du poète : et pendant que Shakespeare fait Shylock ; et, pendant que Shakespeare fait Shylock, elle crée le happe-chaire. Shylock est la juiverie, il est aussi le judaïsme ; c’est-à-dire toute sa nation, le haut comme le bas, la foi comme la fraude, et c’est parce qu’il résume ainsi toute une race telle que l’oppression l’a faite, que Shylock est grand. Les juifs, même ceux du moyen âge, ont, du reste, raison de dire que pas un d’eux n’est Shylock ; les hommes de plaisir ont raison de dire que pas un d’eux n’est don Juan. Aucune feuille d’oranger mâchée ne donne la saveur de l’orange. Pourtant il y a affinité profonde, intimité de racines, prise de sève à la même source, partage de la même ombre souterraine avant la vie. Le fruit contient le mystère de l’arbre, et le type contient le mystère de l’homme. De là cette vie étrange du type.