おフランスのハムレット3


やっとこさハムレットのハの字ぐらいはでてきますが
そんなことより
今回はもっと広い興味をそそる箇所であります。


馬鹿と鋏は使いようといいますが
これに神を含めて欲しいというのが今日の小生の叫びであります。
馬鹿と鋏と神は使いよう。
決して「紙」のミスタイプではありません。
哲学者じゃあるまいし、
TPOに合わせて好きなように好きな神を持ち出してもいいんじゃないか、と。
もちろんあくまでも「使いよう」であって
人類に甚大な被害をもたらす概念でもあるけれど、
ほら、あの第二次世界大戦の日本ってまるでエデン追放のドラマをみているようだし、ね。
民族的自信なんて小生には鼻くそほどの興味もないので、
今生きるおれたちは何の罪も犯していないのだからと
空しく叫ぶよりも
あれは原罪なんだと納得させることによって
慎ましく生きようじゃないか、などと思っている。
そう、神は反省力に富んだ概念でもありえるわけです。
神が論拠になりうるような時代のものを読んでいると
しばしばこういうことに思い至るわけです。
ユゴーにとっても
天才の論拠は神でありました。
神の息吹を受けし者。
だから凡夫たるもの
天才を批評、批判するに値しないという
非現代的な主張につながるわけですが、
しかしながら
現在、情報肩になっちゃって首が回らないような時代、
もはや批判の類は切り下げないといけないぐらいのインフレを
起こしているような印象さえ受けるのです。


学校というところでは物事の複雑さを教えることはできないのでしょうか。
差別をしてはいけないというのは真っ当だけれど
差別をしちゃうんだよねぇ人間ってぇのは
でも
やっぱり
差別をしちゃいけないんだよねぇと教えられないのだろうか?
批判精神ってのはいいことなのだけれど
批判するってことは君らが思っているよりも
ずっとずっと難しいんだよねとか。
私にとって純文学のエデンが自分のために書くという状態なら
批評のエデンは俺の意見を主張するのではなくて
伝道師のように
人のために書くということではないだろうか?
無理なのはわかっているが
開き直りすぎちゃーいないか?
いくらなんでも
真逆になりすぎなんじゃーないか?
純文学と批評と日本人は原罪を忘れつつあるように思われる今日この頃、
というのが今日のワタクシメの簡単な反省文なのです。

 典型とは神の思し召す事例なのであり、天才はこれらを実現するのだ。どうやら神は、信心してもらおうと人間から人間へ教訓を伝えさせることをお好みになっているかのようだ。詩人は生者たちの道におり、耳元に話し掛けてくれるのだ。だからこそ典型は有効なのである。人間は前提であり、典型は結果である。神は現象を創造し、天才はそれを教えるのだ。神は守銭奴しか作らないが、天才はアルパゴンを作り出す。神は裏切り者しか作らないが、天才はイアーゴを作り出す。神はコケットな女しか作らないが、天才はセリメーヌを作り出す。神はブルジョアしか作らないが、天才はクリザールを作り出す。神は王しか作らないが、天才はグラングジエを作り出す。あるときに、典型が、飾り気のない偉大な役者である思いがけない力に満ちた演出家と十把一絡げの民衆との名状しがたい協働から完成した形で出てくることがある。群集は才女気取りなのだ。二極のうち一方にタレーラン、もう一方にショドリュック=デュクロといった時代から突如、閃光を放って、ひそやかな劇の構想に、かの亡霊、ロベール・マケールが迸り出るのである。
 典型は芸術の中、自然の中とかわりなく行ったり来たりするものである。現実の理想なのだ。人類の善と悪がこの姿の中にある。典型の一つ一つから、思索する者の目に、人間性というものが生じるのだ。
 既に述べたように、典型の数だけ、アダムがいるのだ。ホメロスの人間はアキレスで一人のアダムだ。ここから人殺しの類が生じる。アイスキュロスの人間はプロメテウスで一人のアダムだ。ここから戦う種族が生じる。シェークスピアの人間はハムレットで一人のアダムだ。ここに夢見る人々が結び付けられる。他のアダムたちは詩人たちに創造され、あるものは情熱を、またあるものは義務を、また理性を、良心を、没落を、そしてまた発展を具現化するのである。
 
 Les types sont des cas prévus par Dieu ; le génie les réalise. Il semble que Dieu aime mieux faire donner la leçon à l’homme par l’homme, pour inspirer confiance. Le poète est sur ce pavé des vivants ; il leur parle plus près de l’oreille. De là l’efficacité du type. L’homme est une prémisse, le type conclut ; Dieu crée le phénomène, le génie met l’enseigne. Dien ne fait que l’avare, le génie fait Harpagon ; Dieu ne fait que le traître, le génie fait Iago ; Dieu ne fait que la coquette, le génie fait Clisème ; Dieu ne fait que le bourgeois, le génie fait Chrysale ; Dieu ne fait que le roi, le génie fait Grandgousier. Quelquefois, à un moment donné, le type sort tout fait d’on ne sait quelle collaboration du peuple en masse avec un grand comédien naïf, réalisateur involontaire et puissant ; la foule est sage-femme ; d’une époque qui porte à l’une de ses extrémités Talleyran et à l’autre Chodruc-Duclos, jaillit tout à coup, dans un éclair, sous la mystérieuse incubation du théâtre, ce spectre, Robert Macaire.
Les types vont et viennent de plain-pied dans l’art et dans la nature. Ils sont de l’idéal réel. Le bien et le mal de l’homme sont dans ces figures. De chacun d’eux découle, au regard du penseur, une humanité.
Nous l’avons dit, autant de types, autant d’Adams. L’homme d’Homère, Achille, est un Adam ; de lui vient l’espèces des tueurs ; l’homme d’Escyle, Prométhée, est un Adam ; de lui vient la race des lutteurs ; l’homme de Shakespeare, Hamlet, est un Adam ; à lui se rattache la famille des rêveurs. D’autres Adam, créés par les poètes, incarnent, celui-ci la passion, celui-là le devoir, celui-là la raison, celui-là la conscience, celui-là la chute, celui-là l’ascension.