松鶴の「らくだ」                  

てんこもり!六代目笑福亭松鶴全集 (<CD>)


今日のCDは、六代目笑福亭松鶴の「らくだ」。
あんまりバラで売られていないので
これまた念願のCDである。
本来、上方落語は私にとってはしんどいものなので
よっぽど爆笑したいときに枝雀の落語を見る以外はそれほど興味をそそるジャンルではない。
江戸の方でも、若い噺家がウケたいと発言しているのを聞くと
それは粋なのか?
落語の言葉で言う「クスグリ」の精神を追求すればいいじゃないかと個人的には残念に思うのだが...
松鶴の「らくだ」もやはり、粋もへったくれもあるかいな!と、いきなりギアを全開にしてくる。


おい、らくだぁ、らくだよ、
なんや、けつかれへんのか、
おい、らくだぁ、らくだぁ、
なんや、けつかれへんおもうたら、
どぶさってけつかる。


この大阪弁をごく自然に受容できる人は多分、
大阪の爺さん世代でもなかなか見つからないだろうと思う。
語尾にけつかると付けることさえ、もう死滅寸前と言える。
私の知る限り、語尾に「けつかる」もしくは「けっかる」と付けてしゃべっていた最後の人は
みやこ蝶々だ。
ひょっとしたら京唄子なんかがいまだに言っているかも知れないけれど、どちらにせよ、純然たる動詞としての「けつかる」は初めてだ。
それが弟子のつるべのだみ声に凄みが加わるのだから、私としては、こりゃしんどいぞ、と思うわけだ。
それに冒頭で全く意味がわからんと来る。
「らくだ」という噺を聞いたことがあるおかげで、なんとか類推して考えることはできるのだが、これはまったく外国語のヒアリングの作業にも似ている。
どうやら「けつからへん」は応答がない状態をさすというのは、すぐにわかるのだが、
問題は、次の「どぶさる」という動詞だ。
この「らくだ」という噺、冒頭かららくだと呼ばれるどうしようもない与太者がふぐにあたって死んでいて、死体がそのまま題名になっているという奇妙な噺なのだが、そこからなんとか類推して、
ドアホの「ド」に「伏せる」、要するに「ぶっ倒れている」ことだろうと推測してみた。
のっけからこの調子だから、先が思いやられるのだが、
はっきり言おう。録音の都合によるのかもしれないが、物語を作るという観点からすれば、下手糞だ。
素人が生意気なことを言うようだが、志ん生の「らくだ」と比較すれば一目瞭然だ。
「確か、らくだは、身寄りのない男」などとセリフとして挿入されていたりして
説明的に過ぎるところが噺を平板にしているし、
感情表現が素直すぎる。
例えば、らくだがふぐにあたって死んだと伝え聞いた長屋の大家の反応。
松鶴は、


何?らくだがふぐにあたって死んだぁ?…カーッカッカッカッカ、ほうかぁ、よう知らせてくれたぁ、長屋の皆も喜ぶやろ。


といった具合だ。
一方、志ん生はというと、安らかに死に行くかえるのような声で


ふぐのやろうも、よくあてやがったなぁ〜


というのだ。ひねりぐあい、くすぐり度合いから言うと圧倒的に志ん生だ。
しかしだ。
この松鶴の「らくだ」、伝説の「らくだ」と言われるにふさわしい迫力があるのだ。
へたくそーー、などと思いながらグイグイ引きこまれている自分にも気付く。
大阪出身と言うことがあるにせよ、現に、一回聞いただけで、志ん生のそれより
言い回しが頭の中にこびりついて離れなくなる。
これは談志の落語にも似た感じがする。
このおっさんいやみったらしぃなぁ、しんどいなぁと思いながら見ているはずなんだけど、最後にはお涙を頂戴しそうになっているのだ。
矛盾を粉飾しなければならない虚構というハナから矛盾したものは、
もちろん落語でも同じ作法が採られなければならないと思っていて、
だから小説を読むのは好きだけど、落語は嫌いというのは、
どっちか嘘をついているとみなしているのだが、
そうとは限らないという芸を見せ付けられた。
ちょっとした事件だったと言ってもいいかもしれない。