第九で殺そうベートーヴェン


昨日
ピカソやらコクトーといった
いかにも天才肌の芸術家は
芯から好きになれないと言ったが、
それは
苦悩というやつが伺えないからだ。
生きているという実感を共有できないのだ。
対岸の火事ならぬ
対岸のお遊びにしか見えないのだ。
火事ならもっと楽しめるだろうに。
けれども
天才は天才でも
苦悩の滲み出ているような天才は
やっぱり素敵だと思ってしまう。


第九の季節になりました。
第九だけ聞いてほっこりするのも
いいだろうが、
一から九までぶっ通し聞いてみるのもこれまた一興。
一から四まではさすがに面白いとは
素人には思えないので
1,3,5,6,7,8,9とか
3,5,6,7,8,9、とかを
一日死んだようになって聞きいてみれば
また第九の印象も変わってくる。
ベートーヴェン交響曲の歴史は
ひとりの天才である人間が
スーパーサイア人に成長してゆく過程を
物語っているようにしか私には見えないのだ
(髪の毛といった風貌で言ってるわけではなく)。
五の運命でその生涯を閉じていたとしても
恐らくベートーヴェンはその名を不滅のものにしていただろう。
そして六の田園でも
反対のこともできますよ、
変化球も投げることができるんですよ
少しお休みモードですがね、と
その天才ぶりを
いかんなく発揮する。
五番あればこそ
六番がさらにいっそう
ただもんやない人間の産物であるのがわかるのだ。
ここでも、
神様はまだまだ許さなかった。
ベートーヴェンを更に生かせたのだ。
その結果
生まれたのが
五と六の合体とか融合という言葉では物足りない
止揚とでも難しく言ってみたくなるような
七を作ってみせる。
通称がないだけに
あまり聞かれていない印象があるが
この交響曲で、
リストがリズムの舞踏、
ワーグナーが神の舞踏、
などと
これに近い感想を漏らしたと言われるように、
ひとりの天才的な人間が
サイア人になったのである。
八では
演奏不能と言われる冒頭があり、
ひとりの人間が
己の天才に追いつけないかのような状態になっているのだが
これもまた素晴らしく、
誰か無理やりにでも通称を
考えてくれないだろうかなどと余計なことを思ってしまう。
それで
やっぱり七と八と猫が好きということになるのだが、
第九になると
1,2,3楽章は
もう演奏が無理なんじゃないか、
音の洪水、
これを聞くたびに、
聞いてるこっちが不安になって
あぁ神様、ベートーヴェンに白タオルを。
ベートーヴェンにありがとうとお疲れ様を。
ベートーヴェンをどうか殺してやって下さい、
と祈ってしまう。
私にとって
そんな祈りが通じる
ベートーヴェン第九番の第四楽章なのだ。
本当に存在したスーパーサイア人を目撃する瞬間だ。


ああ、兄弟よ。。。


そういえば
ドラゴンボールZあたりになると
もうエエやん。
もう終わりにしようや、
って思ってたよな。