ヒトヒトヒトヒトヒト

人がいるのにヒトケがない、
ラッシュアワーなのに閑散としている、
この感じは何なのだろう、
この変な空虚感はどうしたものか、
でも必ずしも悪い感じはしない。
なんとならば
心地よささえ禁じえない、
そんな感じ、
それもどこかで体験したぞという
奥深いところでくすぐられるこの既視感。
アキラやキセイジュウといった終末的な漫画の舞台に漂う
空虚な感じというよりも、
徐々に徐々に時間だとか次元だとか横滑りして
できてしまった妙なヒトケのなさ。
それでもなお心地よさを感じてしまうのは
翻ってみるに
私としては当たり前といえば当たり前で、
パリとはいえ場末中の場末に住んでいた私としては
道端にタバコの吸殻、ゴミはおろか、
犬のうんこ、
時には推定人糞さえ落ちているような道を見慣れていた以上、
しかも街路の掃除といっては
ある一定の時間に
お義理丸出しいやいやながら
有色人種なひとたちが
ゴミ回収車とはまた違う清掃車を乗り回して
ただ水で道の汚れを車道の脇に押し流すといった
いまだにそれは掃除ちゃうでと思ってしまうような状況だったのだから
清潔な町に飢えていた、ただそれだけの心地よさかもしれない。
けれども何かまだ腑に落ちない不気味な感じが
久しぶりに見るゴミひとつない町並みにはある。
感じ、感じ、じゃ拙いことこの上ないので、
もっとまともな見方で考えてみるに、
まずはこのゴミのなさに
行政が端緒となっていることに間違いはない。
道に、
歩きタバコ禁止のペイントがあり、
ときおり壁には「犬の糞の後始末をしよう」などといった看板もあり、
ゴミを捨てるところには曜日に加えて、
決められた日に出しましょう!!などとびっくりマークつきで
簡単なお説教が書き込まれたりしている。
しかし、これは端緒だ。
なんと、市民がこれに協力しているのだ。
実は、これ、当たり前ではないはずだ。
少なくとも、この手のお上への協力、
フランス人は無理じゃぁないだろうか、
そんなことに思い至って、ふと思ったのは
あぁ、これは「恥」の文明だ。
万人が万人を監視してるのだ。
伝統はまだ息づいているのだ。ということだ。
もちろん、ひとつの国民性なのだから
これが、いいとかわるいとか、言うつもりはない。
そんなことをつらつら思いつつ
大通りを避けて
小さな路地に入ろうと
ふらふら角を曲がってみると
自転車にぶつけられそうになった。
こういう咄嗟のときには
思わずフランス語が出そうになる。
なにもいやみなことを言うつもりはない。
フランスでは
まるで
良心を唯一表現できる瞬間であるかのように
我先に、こういうときはパードンと謝るので
その癖が体に染み付いてしまっているだけなのだが、
「パー」と言い出しそうになったのを飲み込んで
す、すみませんと会釈して謝ると
向こうは向こうでこっちにいやな顔をしてくる、
謝らないのだ、向こうは。
謝らない態度にというよりも
この何年か感じていた
何気ない良きリズムをはずされたイライラを感じつつ、
路地に入ると
当たり前だが
目の前に
軒の高さも新旧もまちまちの家がならんでいるのだ。
けれども
この狭い道幅のぎくしゃくした景色のお陰で
ひどくこの不気味さに合点のいくことを思いつくことができたのだ。
朔太郎の「猫町」だ。
あの不気味さだ。
こねこねことねこが連呼されることによって
ねこのみならず、町並みからも現実感が奪い去られるあの不気味さと
よく似ている。
潜在的
ヒトヒトヒトヒトヒトなのだ、
久しぶりの町並みに感じる奇妙なヒトケのなさは。
そんなことを思いついて
ちょっとばかしめまいがしそうになった、
軽く気が狂いそうになったが、
なんのことはない、
おれも、既に、この町並みのヒトの一員なのだ。