たまにはいい日もあるもんだ、そんな一日

9時
起床。
世間様はあんなに狂っているのになんでおれはこんなに狂っていないんだろう、
世間並みに気が狂いたいよと思いつつ
さっそく図書館に行く。
探したい本の近くにアルトーの『ゴッホ論』を見かけたので
最初の2ページを拝む。
「人々は、ヴァン・ゴッホを精神的に健康だったと言うことができる。彼はその生涯で右手を焼いただけだし、左の耳を切っただけに過ぎないのだ。」うんぬん。
それから緑色のヴァギナだの、そこから赤ん坊を引っ張り出すだの、
えげつないちょっぴりシュールなエロい描写を2,3行した後で、改行して
「これは比喩ではない。」と来る。
このくだりでアルトーはこの世に生を授かったかいがあったと言えるだろう。
そんなわけで、朝から涙ぐむ。


14時
上半身裸、垢で真っ黒なきちがい兼乞食と、あぁ、ちょっと怖いなと思いつつすれ違う。
なんだかわめいていたのでね。
すれ違いざまに、
俺の腹の底をみやぶったか、
「おれはきちがいだ、それがどうした」とわめき始める。
「そりゃ、そうだ」と納得させられる。
そういえば、口語で「そりゃ、そうだ」と納得させてくれることも
とんとなくなったなぁと思い至る。
「アフリカって一国ですよね」という輩がいたという話を聞かされて以来か。
もはや事実認識なぞ、ものすごくどうでもよくなってしまってる。
だから、間違いなくアフリカは一国で正解なのだ。


16時
今度は初老の外人と若い日本人とのふたりづれとすれ違う。
あぁ、うらやましいなぁ、そんな機会があってと思いつつ、耳をそばだててみると
若者が何か聞き取れない言葉あったらしく、その外国人に尋ねなおしている。
そんな瞬間にすれ違ったのだが、
背後から片言の日本語で
「カ・ク・マ・ル・ハッ」と答えたのが聞こえた。
確かに、背中に、何かドーンと波動ホウのようなものを感じることができる一言だった。


18時
エウリピデースを読む。この日で半分彼の作品を読んだことになる。
ひとりのギリシア悲劇作家の半分の作品を読んで気づかされたことは
どうもすべては古代に既に書かれてしまっているらしいということだ。
親を殺す子供も子供を殺す親も
間違いなく現代人の病理なんかではない。
なにか普遍的なものでさえあるということを改めて感じる。
もう二度とこのようないやな事件が起こらないようにするにはどうすればよいかとか
考えるだけ無駄というものだ。
人間がいる限り、こういう事件を起こしてしまう輩は必ず出てくる。
むしろ、
子を殺した親に、子への愛情などなかったとあっけらかんと思い込んでしまっている世間のほうが
想像力の貧困という意味ではとっても怖い、とってもどうにかならないものか、
やっぱりこれとて考えるだけ無駄なことなのかと思いつつ
飯食って歯を磨いて床に入る。