「人間は万物の尺度である」


このあまりにも有名なプロタゴラスという人のおことば、
続きはこうなっとります(だったと思う)。
「存在するものは存在すると言うし、存在しないものは存在しないと言う」
これを先生は
これ、誤訳だよねぇ、
ハイデガーとかの存在論以降の誤訳だよねぇ、
「そうであるものはそうだというし、そうでないものはそうでないという」
のはずだよねぇ。
とおっしゃってました。
ときすでに遅しではあるものの、そうであってほしいと思いました。
言われて見れば
What will be will be.
を直訳してみなさいと言われて、
「存在するであろうものが存在するだろう」と訳すやつはあんまおらんだろ。

最近幻聴に悩まされています。


未来人と称する人たちがこんなことを言うのです。
昔の人たちは人権ってものの存在を疑わなかったらしいよ。
へぇ、そりゃ不思議だね。
その人たちは神様なんていない
宗教ってなんだか気持ち悪いって言ってはすにかまえてたらしいよ。
へぇ〜。
いるもいないもどっちでもいいのにね。
さぁお祈りにでも行くか。


なんてことがね。
いや〜困った困った。


いっそ、世界的に信教の禁止ってやってみればいいんじゃないだろうか。
というか信教の禁止を断行しようとしたときにどんなリアクションが起こるか見てみたいだけなんだけど。

七人の敵

江戸っ子が落語でしばしば敷居をまたげば七人の敵がいるってことを誇らしげに話すので、
ぼくも七人の敵を作りたいと思うのですが、どうしたらいいのでしょうか?
少なくともまだまだ物足りない感じがして落ち着きません。
老若男女問わずでしょうか?
メコもジャクシも不問でしょうか?


それにしても近頃は狂ったように勉強していて
昔なぞは、リーマン以上に机に座らないと世間様に申し訳がたたねぇと思いつつも
頭脳労働でそれは無理、非奴隷状態でそれは無理、
とあっさり断念して、毎日が日曜日だったのに、
今更ながら毎日がサービス残業となっております。
こういうのをつづめて言うと
後のお祭り騒ぎというのでしょう。

アテナイオス『食卓の賢人たち』

思うところがあって、
ラテン語ギリシア語を学び始めた。
ラテン語は十年前に一度習っていて―というか学生を十年以上やってるわけね、こわっ。てゆか丁稚奉公が長すぎる―、
さすがにこの辺がやっかいだったんだと思い出せたりするのだが
古代ギリシア語はというと想像以上にずっとずっと難しいのだ。
ラテン語なんて簡単じゃーーんと思っちゃう、そんな
難しさなのだ。
問題練習を解いていても
行間から、おまえなんか仲間にいれてやんねぇなどというメッセージが聞こえてくる、
そんな難しさなのだ。
それは、まぁおいといて。
おかげでおもしろい古代の本に出会えるのもまた事実で、
先日知ったのはアテナイオス『食卓の賢人たち』という京大学術出版会から五巻で出ているものだった。
いわゆる珍書、個人的な好みで言うと珍本(チンポン)に相当するものだろうが
著者がなかなかつむじまがりな輩だったようで
節々にサンショウの味をまぶしてくれる。
これは全30巻あるらしく、当然日本語訳は抄訳!ということになるのだが、
たとえば、30巻中の第3巻に、こんな一文がある。
「ここでこの書物を終えれば、我々も理性があるとみなされつづけるであろう」とか
また別の個所には
「大きな書物は大きな災難である」とか言っちゃったりするのだ、
全30巻の著者が。
当然、ぱらぱら流し見しただけなので
こまかなことはわからんが、
ぱらぱら見ただけでも、ぷっと吹き出しそうな文章があったりする。
「諺にこういうものがある。「女よ、きゅうりをかじりながら機を織れ」」
てゆか、こんな諺、あるわけないじゃん、といった類である。
よき変人を目撃してしまったよ。


そういえば、この間、スーパーできゅうりだけを一本買っているきれいなお姉さんがいた。
あれはやめた方がいい。

ボワロー

「詩法 CHANT1」のオチとなる一文。


「あほうは己をほめてくれるさらなるあほうを見つけ出す」



とかなんとかこんな感じだった。
これをアレクサンドランで。
案外笑えないジョークよ、これ。
こんなの好きだけど。

雑排

木漏れびや じゅうえんはげに 毛が生える


耕衣的熱さでいくと
炎天下 じゅうえんはげに 毛が生える
かね。こっちのほうがかっこいいかね。

東京に出てきた初日に10えんはげに気づいたのである。
はげとは無縁の髪質だったので
薄くなったらぼうずにすればええんでないの?と簡単に思っていたのだが、
このつるつるの部分をさわっていると
基本的に考えは変わらないが
ひとつクッションを置くことができるようになったかと思う。
何か書類に書き込みを、などとお願いされると
はーい、わかりましたと快い返事をしつつ
出された紙に覆いかぶさる直前に
ほぼ無意識にそのはげの部分を髪の毛でさっと隠すのである。
これがいわゆるバーコード発生のメカニズムなのだ。
徐々に徐々に、背丈のように気付かないうちにはげが大きくなる、
その度に、何気なくはげをさっと隠そうとする、
そんなメカニズムなのだ。
なんのことはない、
年を重ねれば年を重ねるほど
何か心に秘匿しておきたいことができて
それを隠そうとする、
横からあおられると
お前、どっかの磯かよ!的なざんばらになって
さっと手で何事もなかったように元に戻す、あの仕草、
誰だって心にそれをやってるんじゃないか、
そんなクッションである。


バーコード笑うやつにもバーコード


そんな感じだ。
そんなことより、いいことありそな句を思いついたのです。


新月や よやみにへたか さんなすび


季語とかはちょっと横においといて、
これがもう一息なのだ、
なんとかならんかね
句というやつは共作の方がときとしていいものができるような気がするけど。
いいことありそうな句ができそうなんだが
もうひといきなんだよ。