かっちょいい本を見つけたのでメモ

「マネがスキャンダルとなった段階を「近代性modernité」の発現、マネがスキャンダルとなったことに義憤を感じる価値観を「近代主義modernisme」の支配した段階、そしていまさら義憤を感じることそのものが古臭くみえる段階を「近代以降post-modernisme」と仮に名付けることも許されようか。(略)
 ところが、今では≪オランピア≫は名実ともにフランス十九世紀絵画を「代表」する作品になりおおせていて、今や誰もそれを怪しみはしない。つまり件のスキャンダルは、歴史という衣装に身を包むことで三度変身し、今度はそうした価値観逆転の事実そのものを覆い隠す役割をもはたすことになっているわけだ。歴史とは通常、そうした隠蔽行為に与えられた恥ずべき美名なのだ。。。」

稲賀繁美著、『絵画の黄昏 エドゥアール・マネ没後の闘争』、名古屋大学出版会、1997年。


敷居をまたげば七人の敵がいるどころではない舌鋒のするどさのありあまる本。
現在まだ十数ページと参考文献の欄しか読んでいないが、
既にもうブルデュー森村泰昌、果ては日本の美術界のありまさまが槍玉に挙げられている。
(槍玉といっては語弊があるかもしれないが。。。)
骨粗鬆的な印象を否めなかった日本の展覧会、
そんな己の直感なんぞ信用に値はせぬ
それこそ悪しき印象主義と思って
日本は日本、フランスはフランス、と知らん振りをしていたのだが
なんだか苦味を伴いつつ溜飲が下がった思いだ。
確かにパリでは何気なく足を運んだ展覧会にとんでもないルーブルなどの名画が張り出されていて
づるいなぁもうなどと喜んでいたっけ。
要するにあっちは単に地の利があるというだけではなく
美術館間のネットワークが確立されているわけだ。
そんなわけで読書の実況中継でした。

国家の品位の真意

私はウヨクでもサヨクでもありません。
ムヨクであります。
とはいえ、愛国心といった言葉にだけは
ビンビンに反応して
少々頭の中では意固地になってしまいます。
国家を愛するって。。。
国に誇りって。。。
いすの脚元で生まれたひよこじゃないんだから
もっともげすな愛じゃないですかとしか思えないのです。
そりゃもちろん
人類が生まれてこの方、
おれたちゃひよっこだったのだし
これからもそうなのだろうから
愛すなとは言わんが
愛さないように努力したらどうなんだと言いたいわけだ。
わたしなんぞこの鍛錬が功を奏してきて
WBCの日本韓国戦を見ていたときに
あちらがたのライトが目もさめるようなスーパーファインプレーをしたときに
あまりの美しさに思わず手を叩いて喜んじゃったよ。
ありゃ、日ごろの行いが悪いはずのないプレーだったからね。
今でも脳裏に焼き付いております。
そんなことより、
自分が所属しているだけで
愛するなんてこと
愛の量を誇るなんてことは
ちょっと考え直したほうがいい。
大家にお金払うときに
住まわせてもらってどうもありがとうとは思っても
大家を愛してるなんてやつはいないだろう、
その程度でいいじゃないっすか、
国家とはでっかい大家に過ぎないのです。
もっとわかりやすくいえば
クラブの姉ちゃんにほれるに似たり、だろう。
こいはこいでも金もってこいがほんのこいなり。
花魁におかぼれ(片思い)するに似たり、だろう。
まぁ
おかぼれも三年すれば色のうちっていうから
愛すなとは言わんけれど、
それはひよっこな愛だと思うべし。
国家を売春婦といっしょにすな!と思われる向きもあるかもしれないが
国家ごときを売春婦と一緒にしないと説明できないことが俺はくやしいと
むしろ思うのだが。
てか、
売春婦に惚れるほうがまだいいだろう、
取られるのは金だけで
命にまでは及ばないのだから。
花魁のマブになる輩はいるかもしれんが
お国太夫のマブになるやつなんていないんだし。
国を愛せというこの機運、平和に飽きた平和ボケにしか
あっしには見えません。

ロダンカリエール展

行った展覧会をメモしておくと
おいおい役に立ったりするので。
上野でやってるロダン・カリエール展に参りました。

確認したのは
象徴派っぽい絵はやっぱつまらんということでした。
もやもやしやがって
男ならかきなぐれ!と思うわけです。
逆に行く前はむしろ興味の薄かったロダンの方が
収穫がありました。
ひねくれたところがあるので
どうしても
「考える人」は駄作、
コーディネートミスと思っていたのですが、
この考えは基本的にはかわりません。
マッチョなのに考えるか?おい
という単純至極な理由で駄作と言ってるだけなので
まぁいないとは思うけれども
あっしの意見なんぞまに受けないでください。
外へはじける肉体的エネルギーと
うちへうちへ引き込むはずの「考える」というモチーフが
見てると気分悪いんだもん。
とはいえ、
ロマン主義から象徴主義的になってゆくロダンがわかりやすく並べられていて、
しかも象徴主義ロダン、素敵じゃんと思えたので
よかったと思います。
よかったです。


ただ、
もっとも反応したのが
イリスという顔のない
ざくろのような女性器がざっくりと入ってて
飛び上がってる像は
ありゃ、やっぱりいいね。
顔のないのにとかく反応するのだけれど
それを差し引いてもこりゃいいです。
ロマン主義的な肉体なのだけれど。
それとカリエールの絵も全部やだというわけではなく
というか
これぞ象徴主義絵画の見方のコツだと
じぶんなりに思っているのだけれど
要するに
象徴主義絵画に感動するのは
あいそのわるいやつが笑ってるのを見る喜びみたいなもんだと。
なので
一点二点、あるんすよ、
象徴主義系の展覧会には。
あぁこれならいいと思えるぞ的なのが。
そんなわけで魂震えたのは
「アンリ・ロシュフォール」の肖像だね、
ありゃ、よかったよ。
マネなんかも描いてる人らしいけど。


それから常設の松方コレクションも
やっつけで行きました。
行ったら、
版画展なんてやってくれていて
てめぇんちの倉庫から
ドーミエの版画なんか出してくれて
ロダン・カリエールだけで1300円は微妙だなと思っていたけれど
この版画展のおかげで
きてよかったかなと思いました。
それと常設展では
観覧車が記した感想文を
館長賞、内館牧子賞、みうらじゅん賞にわけて
優れた文章を絵の横に貼り付けてました。
この文章が
きもいんだ。
フォント10ぐらい声を大にしてきもいといいたいんだ、おれは。
もう、おれは絶望した、深く絶望した、おれの生きる世界はないんじゃないかと思って。
美しすぎるんだ、文体じゃなくって
美辞麗句という意味で。
それを書いちゃうことよりも
それをえらうんぢゃうブルジョワ精神に
あぁ生きる場所なしと思ってしまったよ。
救いは
みうらじゅんチョイスだった。
なんでこんな感想、選ぶの?と
みうらじゅんを知らぬ相棒さんは言っていたが
答えは簡単だろう、
ほかの感想文が
きもかったからだよ。

帰国ごこち

この間
やぼようで実家に帰った。
夜中にテレビのチャンネルをつけてみると
憂歌団の木村何某(下の字読めないぞ)とヒロトがセッションしてた。
なんだか日本に帰ってきた感じがやっとしたよ。
「音楽はブルーハーツフィッシュマンズだけでよし、
クラッシックなんてほんとはいらない」が口癖の私としては
そういえばここに憂歌団も付け加えないとね、とこれを見て思ったよ。
フビライ顔の木村何某
枝雀禿頭の木村何某
抗がん剤系フェイスの木村何某、
これはいっちゃまづいのか?いや、まづくないだろう、
魂を揺さぶってくれるんだから、そんな木村何某。
そのうちビギンが沖縄民謡歌ったりするのを見てると
もうひとつ贅沢を言わせてもらうなら
ブルーハーツフィッシュマンズ憂歌団と沖縄民謡以外
内地に音楽はいりません、ということだ。
それと
こんな放送をしてくれる
NHKに金払ってやれ
馬鹿やろう。ということだ。

読書メモ、なんとかシュリンクの『朗読者』

もちろん私にだって女性の好みぐらいはあるのだが
それはそれ、
好みから少々ずれようがたいした問題ではない。
ただひとつわがままを言わせてもらうなら
おかんのようではない人、というぐらいだ。
先だっても
何気なくおかんが
お母さんはわがままでお父さんがかわいそうとかって
思ってるんやろ?
などとあまりに図星な質問をしてくるので
へ、へ、へ、と笑ってごまかそうとしたら
な、そう思ってるんやろ?と
さらにしつこく羽交い絞めにするので
いやいや、そんなことあらへんで、と
息子に嘘をつかせる母親なのである。
だからこんな女いやだということになるのだが、
おかんのようではない明治を思わせる強い女を探そうというのは
どうやらたいそうわがままだったようで
つきつめて言えば
女の人を好きになれないということになる恐れだってある。
失われたオカンを求めて
などとのんきなことを言ってる場合ではないのだ。
そんなわけで
近頃おかんとよく話をするようにしている。
はっきり言って
メル友だ。
最良の、と言ってもよい。
なぜなら私の薦める本を逐一読んでは感想を送ってくれるからだ。
こんなに研究者冥利に尽きることはないのである。
ある日、
息子の学ぶ詩人のことを知ろうと思い立ったらしく
菅野昭正の大著『ステファヌ・マラルメ』を読んだという。
私自身も頭から尻尾までいわゆる読書をするように読んだことはない分厚い本を読んだというのだ。
その感想は
マラルメさんって友達がおおいんですね」だった。
青天の霹靂というのか
ざっくり凝り固まった脳天を割られるような思いこそする、
とてつもなくナイーヴな感想だ。
以来、
自分が読んで面白かったもの、
読みたいけど時間がないので代わりに読んでもらおうと思うもの、
それから
もちろんいたずら心だってこちらとしては忘れるわけにはいかない。
そんなわけで
ある日、
マラルメさんのお友達の小説家にユイスマンスという人がおってな
『さかしま』にはマラルメさんも出てくるよ、
おもしろいよーと薦めておいた。
そしたらまたぞろ読んだという。
曰く
「こんな小説もあるんですね」。
あるのである。確かにこんな小説もあるのである。
あるときは
新田次郎の妻、
藤原ていにはまったらしく、
その生き様への共感を熱心に報告してくれる。
そこで
作家の嫁がらみで
井上ひさしの嫁だった西舘好子『修羅の住む家』と
ひさしの母マスによる『好子さん!』を薦めてみた。
これは私自身は手にとってさえいないのだが
かねてから気になっていて
言ってみれば代読をお願いしたのである。
その感想は
「言いたいことを言ったら負けだと思います」
だった。
おこっとる、おかん、ちょっとおこっとると思いつつも、
失われたオカン像に近いものも感じた。
怒らせても
おつなことが聞けてなかなかいいかもしれない。
とはいえ
立て続けに怒らしては悪いので
今は何年か前に世界的ベストセラーになった
『朗読者』を薦めている。

あかの他人

帰国後初めて居酒屋というところに言って
ちょっとばかし酔狂になって山手線に久々に乗り込んだ。
土曜日だし夜もいい時間だというのにラッシュだった。
つりかわにしがみつきいびつな態勢でこらえていると
いつのまにやら
となりに外国人のカップルがいた。
耳を澄ますとどうやらフランス人である。
さすがに何か話しかけたくなったが
おれはそんな奴じゃぁないんだよなぁと結局しり込みしてるうちに、
彼のほうがついついつり革を手からはなしてしまったらしく
そのはねっかえりで頭をこつかれて
これがたいそういい音を立てたのだ。
いかにも中身がつまってなさそうな響きである。
「いい音したね〜」などと
フランス語がなつかしくって
話しかけたくなったのだけれど
それでもやっぱり話かけずにいた。
彼も彼で私の欲求など知らずに
その瞬間を見てなかった彼女に
状況を説明している。
そんなこんなでしばらくすると
私の降りる駅に着いたので
そのカップルの前を通してもらおうと
やっぱりフランス語でパードンだとかエクスキュゼモワでもなく
すみません、すみませんとつぶやきながら道をこじ開けようとすると
彼の方も日本語でスミマセン、スミマセンと言ったのだ。
それを聞いてなぜだか
あぁあかの他人なんだなという気がして
ちょっとばかし寂しくなったよ。

ヒトヒトヒトヒトヒト

人がいるのにヒトケがない、
ラッシュアワーなのに閑散としている、
この感じは何なのだろう、
この変な空虚感はどうしたものか、
でも必ずしも悪い感じはしない。
なんとならば
心地よささえ禁じえない、
そんな感じ、
それもどこかで体験したぞという
奥深いところでくすぐられるこの既視感。
アキラやキセイジュウといった終末的な漫画の舞台に漂う
空虚な感じというよりも、
徐々に徐々に時間だとか次元だとか横滑りして
できてしまった妙なヒトケのなさ。
それでもなお心地よさを感じてしまうのは
翻ってみるに
私としては当たり前といえば当たり前で、
パリとはいえ場末中の場末に住んでいた私としては
道端にタバコの吸殻、ゴミはおろか、
犬のうんこ、
時には推定人糞さえ落ちているような道を見慣れていた以上、
しかも街路の掃除といっては
ある一定の時間に
お義理丸出しいやいやながら
有色人種なひとたちが
ゴミ回収車とはまた違う清掃車を乗り回して
ただ水で道の汚れを車道の脇に押し流すといった
いまだにそれは掃除ちゃうでと思ってしまうような状況だったのだから
清潔な町に飢えていた、ただそれだけの心地よさかもしれない。
けれども何かまだ腑に落ちない不気味な感じが
久しぶりに見るゴミひとつない町並みにはある。
感じ、感じ、じゃ拙いことこの上ないので、
もっとまともな見方で考えてみるに、
まずはこのゴミのなさに
行政が端緒となっていることに間違いはない。
道に、
歩きタバコ禁止のペイントがあり、
ときおり壁には「犬の糞の後始末をしよう」などといった看板もあり、
ゴミを捨てるところには曜日に加えて、
決められた日に出しましょう!!などとびっくりマークつきで
簡単なお説教が書き込まれたりしている。
しかし、これは端緒だ。
なんと、市民がこれに協力しているのだ。
実は、これ、当たり前ではないはずだ。
少なくとも、この手のお上への協力、
フランス人は無理じゃぁないだろうか、
そんなことに思い至って、ふと思ったのは
あぁ、これは「恥」の文明だ。
万人が万人を監視してるのだ。
伝統はまだ息づいているのだ。ということだ。
もちろん、ひとつの国民性なのだから
これが、いいとかわるいとか、言うつもりはない。
そんなことをつらつら思いつつ
大通りを避けて
小さな路地に入ろうと
ふらふら角を曲がってみると
自転車にぶつけられそうになった。
こういう咄嗟のときには
思わずフランス語が出そうになる。
なにもいやみなことを言うつもりはない。
フランスでは
まるで
良心を唯一表現できる瞬間であるかのように
我先に、こういうときはパードンと謝るので
その癖が体に染み付いてしまっているだけなのだが、
「パー」と言い出しそうになったのを飲み込んで
す、すみませんと会釈して謝ると
向こうは向こうでこっちにいやな顔をしてくる、
謝らないのだ、向こうは。
謝らない態度にというよりも
この何年か感じていた
何気ない良きリズムをはずされたイライラを感じつつ、
路地に入ると
当たり前だが
目の前に
軒の高さも新旧もまちまちの家がならんでいるのだ。
けれども
この狭い道幅のぎくしゃくした景色のお陰で
ひどくこの不気味さに合点のいくことを思いつくことができたのだ。
朔太郎の「猫町」だ。
あの不気味さだ。
こねこねことねこが連呼されることによって
ねこのみならず、町並みからも現実感が奪い去られるあの不気味さと
よく似ている。
潜在的
ヒトヒトヒトヒトヒトなのだ、
久しぶりの町並みに感じる奇妙なヒトケのなさは。
そんなことを思いついて
ちょっとばかしめまいがしそうになった、
軽く気が狂いそうになったが、
なんのことはない、
おれも、既に、この町並みのヒトの一員なのだ。