ナタリー・サロート『不信の時代』より


ほれたはれたの男と女が
なんとはなしに
愛を育む会話のひとつに
赤ん坊の名前について
語り合うということがあるかと思います。
かくいうわたしも年甲斐もなく嫌いではないタチでございまして
ひとつやふたつ赤ん坊の名前に是非、
というものを持ち合わせております。
少しばかりへそ曲がりの私といたしましては
複雑怪奇な名前が跳梁跋扈する中、
純朴な名前に憧れを持っている手合いでございます。


「男の子が生まれたらなぁ、そら、太郎しかないで」
「いやだぁ。お役所みたいじゃん」
「ほんだら、サエモンでどや?足、早そうやろ?」
「絶対、いじめられるよぉ」
「ほんだら、太郎しかないな。
ほんまに気に入ってるんやけどなぁ。気に入らんかぁ。
女の子やったら、花子なんやけど、太郎アカンっちゅうんやから
アカンやろ?」
「あたりまえじゃーん」
「そう来るわな。ぶっちゃけなぁ、とっておきの名前があるんや。聞きたいか?」
「え、なに、なにぃ?」
「『かのか』。『かのか』や。どや、かわいいやろ?」
「かわいいじゃん」
「おう、そらそうや、こないだなぁあっさりしてて安い焼酎のんでな、それが『かのか』やったんや。」
「『ねぇえ、パパ、どうしてワタシ、かのかっていうの?』って聞かれたらどうするのよ!」
「そら『焼酎や』って言うたらエエがな」
「泣いちゃうよ、かのかちゃん」
「それぐらい、ええがな。苦もありゃ楽もあるっちゅうことで」
「嫌われちゃうよ、かのかちゃんに」
「なんや、一生か?」
「うん、一生」
「ほうかぁ、そら困ったなぁ。
ほんじゃ、これどうや。誰にも言うたらあかんで。
ほんまにほんまのとっておきやから」
「ほんとぉ?」
と彼女は口をすぼめて、半ば呆れ気味に尋ねました。
「ほんまや。どや、『うてな』っちゅうんや。かわいいやろ。
ええ、しっとるか?『うてな』って何のことか?知らんやろ?なぁ」
「何、何ぃ」
と彼女は途端に気色ばんで私に答えを急かせます。
「むっちゃむつかしい漢字や。
常用漢字で書いたら、お台場の台になってもうてかっこわるいから、
せやからひらがななんやけどな。。。」
「だから何?」
「花のガクや。」
「だめじゃん」
「あほ、そんなことあるか。
マラルメの偏愛した単語やぞ。
フランス語でカリースっちゅうてな、
カリースで、花のことを言うんや、
マラルメの場合。
要するに、あれや、
『花は自分で咲かせなさい』ちゅうこっちゃ。
どや。ええやろ?おれ、詩人やろ?」
「うん、いいかもねぇ。うてなちゃんか。。。」
とどこか遠くを見つめるようにして、彼女は反芻しておりました。
「でもな、美容室にもあるやろ?Utenaっちゅう。
化粧品にもあるんや。だからなぁ結局。。」
「花子だけは却下」
「そうか。しゃーない。ほんじゃ、今日のところは、
男の子ができたら『太郎』、
女の子ができたら、中国に売り飛ばすっちゅうことで」


こういうのを落語の落ち風に分類すれば
地獄落ちとでも言えますか、
いや、落ちにもなんにもなってないぞ、
という謗りは免れないでしょうが、
それはそうと
ここでの一番の関心事は
全く別で、
鍵括弧ってきしょくない?ということなのです。
これはかなーり若い頃から
心煩わせている興味で
改行、「ハイ、カット!」
鍵括弧、開いて、「ハイ、スタート!」
括弧閉じて「ハイ、カット!」
という声が延々きこえてきそうで
私にとってはリアリティーぶち壊しの興ざめな約束事以外の何ものでもありません。
そんな不満を一掃してくれたのが
ナタリー・サロートという
フランスの女性作家でした。
ヌーヴォー・ロマンという言葉は、
彼女の『見知らぬ男の肖像』という作品に
序文を寄せたサルトル
そこで高らかに宣言したものであることを考えれば、
彼女こそ、すぐれてヌーヴォーロマンの作家ということになるやもしれません。
実際、
彼女の作風は、
たといフランス語を読めなくとも
それとわかる独特のもので
というのも
ほとんどが会話、しかもぢの文とまぜこぜ、
決して読点の打たれない尻切れとんぼ状態であるからです。
それでもうかれこれ十年たとうとしておりますか、
彼女の作品など一作読めば充分だとも
今となっては思うのですが、
翻訳されたものをかたっぱしから読み漁りました。
私にとっては、
紙面の上でリアルな物語が起こっていると思えたからです。
それで今日は
少し、青春を取り戻そうじゃないかと、
彼女の評論『不信の時代』より。
(確か紀伊国屋書店から翻訳が出てたと思う。絶版だろうけど。
しかもなぜか、彼女の訳書は他のヌヴォー・ロマンの作家より
古本屋で高く取引されているように思う。あれはなんでだろ?)

読者に二兎を追わせないようにするべきです、というのも登場人物たちが安直な生命力や本当らしさにおいて得るものを、彼らの支えとする心理状態は、深い真実において失ってしまうのですから、読者の気が散らないように、そして登場人物にばかり気がいかないようにすべきで、それ故、意に反して、自然な性向から、だまし絵をこしらえようと横領するようなあらゆる指標を読者から出来うる限り奪うべきなのです。〔中略〕そうすれば、読者は、一挙に内部、著者のいるまさにその場所、読者が登場人物を構築するのについつい助けにしてしまうような、そんな道標など何もない深みへと向かうことになるでしょう。血液にも等しい匿名体の中、名無しで輪郭もないマグマの中の果てまで読者は没頭し、釘付けにされる。読者が何とか身動き取れるのは、著者が見当の付くように据えた目印によってなのです。読者なじみの世界のいかなるレミニッサンスも、まとまりとか本当らしさへのいかなる因習的な配慮もその注意をそらせないし、その努力に歯止めをかけないのです。


Il faut empêcher le lecteur de courir deux lièvres à la fois, et puisque ce qu les personnages gagnent en vitalité facile et en vraisemblance, les états psychologiques auxquels ils servent de support le perdent en vérité profonde, il faut éviter qu’il disperse son attention et la laisse accaparer par les personnages, et, pour cela, le priver le plus possible de tous les indices dont, malgré lui, par un penchant naturel, il s’empare pour fabriquer des trompe-l’oeil. […] Alors le lecteur est d’un coup à l’intérieur, à la place même où l’auteur se trouve, à une profondeur où rien ne subsiste de ces points de repère commodes à l’aide desquels il construit les personnages. Il est plongé et maintenu jusqu’au bout dans une matière anonyme comme le sang, dans un magma sans nom, sans contours. S’il parvient à se diriger, c’est grâce aux jalons que l’auteur a posés pour s’y reconnaître. Nulle réminiscence de son monde familier, nul souci conventionnel de cohésion ou de vraisemblance ne détourne son attention ni ne freine son effort.


N. Sarraute
Article des Temps modernes, février, 1950,
repris dans L’Ere du soupçon, 1956.

すまんわけのわからん日本語にしてしもて。
頑張ったんやが。。