Repette

Repetteなるバレエシューズメーカーがあって
ふだんばきの靴もフェミナンなデザインでわりと人気があるらしいのだが
これをカタカナでレペットってどこも表記してるんだが、なんでだ?
ルペットでもレペットでも
どっちでもいいといえばどっちでもいいんだけど
すんごくフランス語の読みが自信なくなるので、そういう意味で困るんだ、私は。
なんでですか?
固有名詞だからですか?
レペットは規則どおりなのか?ちがうよな?ルペットだよな?
音素区切って考えればRe-pet-teだよな?これはル・ペ・ットだよな?
となって、頭がわーーーとなるのでつらいのです。

たまにはいい日もあるもんだ、そんな一日

9時
起床。
世間様はあんなに狂っているのになんでおれはこんなに狂っていないんだろう、
世間並みに気が狂いたいよと思いつつ
さっそく図書館に行く。
探したい本の近くにアルトーの『ゴッホ論』を見かけたので
最初の2ページを拝む。
「人々は、ヴァン・ゴッホを精神的に健康だったと言うことができる。彼はその生涯で右手を焼いただけだし、左の耳を切っただけに過ぎないのだ。」うんぬん。
それから緑色のヴァギナだの、そこから赤ん坊を引っ張り出すだの、
えげつないちょっぴりシュールなエロい描写を2,3行した後で、改行して
「これは比喩ではない。」と来る。
このくだりでアルトーはこの世に生を授かったかいがあったと言えるだろう。
そんなわけで、朝から涙ぐむ。


14時
上半身裸、垢で真っ黒なきちがい兼乞食と、あぁ、ちょっと怖いなと思いつつすれ違う。
なんだかわめいていたのでね。
すれ違いざまに、
俺の腹の底をみやぶったか、
「おれはきちがいだ、それがどうした」とわめき始める。
「そりゃ、そうだ」と納得させられる。
そういえば、口語で「そりゃ、そうだ」と納得させてくれることも
とんとなくなったなぁと思い至る。
「アフリカって一国ですよね」という輩がいたという話を聞かされて以来か。
もはや事実認識なぞ、ものすごくどうでもよくなってしまってる。
だから、間違いなくアフリカは一国で正解なのだ。


16時
今度は初老の外人と若い日本人とのふたりづれとすれ違う。
あぁ、うらやましいなぁ、そんな機会があってと思いつつ、耳をそばだててみると
若者が何か聞き取れない言葉あったらしく、その外国人に尋ねなおしている。
そんな瞬間にすれ違ったのだが、
背後から片言の日本語で
「カ・ク・マ・ル・ハッ」と答えたのが聞こえた。
確かに、背中に、何かドーンと波動ホウのようなものを感じることができる一言だった。


18時
エウリピデースを読む。この日で半分彼の作品を読んだことになる。
ひとりのギリシア悲劇作家の半分の作品を読んで気づかされたことは
どうもすべては古代に既に書かれてしまっているらしいということだ。
親を殺す子供も子供を殺す親も
間違いなく現代人の病理なんかではない。
なにか普遍的なものでさえあるということを改めて感じる。
もう二度とこのようないやな事件が起こらないようにするにはどうすればよいかとか
考えるだけ無駄というものだ。
人間がいる限り、こういう事件を起こしてしまう輩は必ず出てくる。
むしろ、
子を殺した親に、子への愛情などなかったとあっけらかんと思い込んでしまっている世間のほうが
想像力の貧困という意味ではとっても怖い、とってもどうにかならないものか、
やっぱりこれとて考えるだけ無駄なことなのかと思いつつ
飯食って歯を磨いて床に入る。

他人の空似

目が悪くなった上に、
留学したせいで
ちょっとばかし浦島太郎状態になっているのだろうか、
しばしば誰かに似ている人を見かける。
しかも声をかけそうなぐらいに似ている人たちとたくさん出会う。
どちらかというと
親しみの量に反比例するようで、
やはり記憶があいまいになっているせいか
その似ている人を見て、あ、似てる!と思うと同時に
そういえば、本人は今ごろどうしているのだろう。。。といった具合なのである。
これがあまりに激しいので
もはや最近などは
似ている!と喜ぶだけではあきたらず
本人めっけ!と思い込むことにしているのだが、
これがなかなかシュールで個人的な楽しみとなっているのだ。


あんなに奥ゆかしかったMちゃんが
喫煙所でぱっくり股をおっぴろげ、のけぞって
ハイライト吸ってるよ!とか


とびきりおしゃれに気を使っていた
Nが夕刊を自転車たちこぎで配ってて
額に汗してるのを見て、
新たなダンディズムを開発中なんだな、と思ったり。


それもこれも茫洋とした記憶がなせる技なのだろうが、
しかし、昨日とうとう見てしまったのだ。
おれを。おれが向こうでひじついて本を読んでたのだ。
あれは確かにおれだった。
おれはやっぱりおれの好みの顔をしていると改めて思った。
けれども、それを非常にどうでもいいこととも思った、というか
どうでもいいやと、たいして何も感じなかったので
やっぱりまたいつかおれはおれを目撃することになるかと思う。
今度のおれは何してるだろう。
今からわくわくする。

非アナーキスト、ランボー


Qu'est-ce pour nous, mon coeur, que les nappes de sang
Et de braise, et mille meurtres, et les longs cris
De rage, sanglots de tout enfer renversant
Tout ordre ; et l'Aquilon encor sur les débris ;


今、ネイティヴによる詩の講義に出ているのですが、
これがまた、今までおれが受けてきた講義
―フランス本国も含めて―はなんだったんだというオモシロ講義で、
詩法、というかその効果をちらとでも感じることなぞ、
もうすっかりあきらめておったのだが、
そうじゃなかったと思わしむること十分な講義、
一言で言うと詩が蘇るスリルを味わえるのです。
上の詩はランボーのもので
極めてアナーキー
「ヨーロッパ、アジア、アメリカ、みんななくなっちまえ」
などと歌われたりする詩で、
こりゃまた痛快だと思いつつも、
これって詩なのか?
ただの単語の羅列でもって紙にぶちまけてるだけなのでは?
故にランボーいまいち好きになれないという短絡的な評価を
知らず知らずのうちに下しておったが、
そこで、問題、
さて、上に引用した詩篇の冒頭の革新性について述べよ。
ということになる。
これがわかると単なるアナーキーじゃないんだというのがよくわかる。
この詩の最後の一行
「大丈夫、ぼくはここに、ぼくはずっとここにいる」ともがっつりはまる詩に化けるのです。


詩法の効果込みで日本語に試しに訳してみると


「わが心よ、我らにとって何するものぞ、血のそして
燠火の瀑布、大量殺戮、長く続く阿鼻叫喚、
どんな秩序もひっくりかえす地獄全体の
すすり泣き、残骸の上にまだいるアキロン(北風)、」


あぁ、無理だね。日本語にするのは。
要するに、超古典的なアレクサンドランで最初は始まる、
きっちり区切りも半句で来て、
ネイティヴにとってはしみついたリズムだそうで、
さぁ、ここちのよいアレクサンドランだと、期待させておきながら、
だまし討ち、
突如、次の行からアレクサンドランとはいえ、
茨の道を行くようなリズム、
半句に区切りなんかなく、
しかも名詞の羅列、
しかもアナーキーなイマージュの連続、
アレクサンドランという車体が
ガタピシ言いながら、変な煙を吐いてなんとか最後まで進んだかと思うと
最後の一行はもはやアレクサンドランではなく、
ヴェルレーヌあたりまでは忌み嫌われていた奇数音(ここでは9音)で


大丈夫、ぼくはここにいる、いつもここにいる

Ce n'est rien! J'y suis! J'y suis toujours.


とくる。先生は「ぼく=アレクサンドラン」とおっしゃったが
個人的には「ぼく=ポエジー」でいいんじゃないかなぁと思ったのだけど、どうなんだろ。

文学のはじめの一行


「怒りを歌え。。。」ホメーロス


でした。
溜飲の下がる思いがします。
怒りを歌にするのです。
怒りを昇華させる―ごくまれな天才を除いて、アートはこれにつきます。
前向きなのはもう堪忍なりません、
YMCAの歌詞を除いては。

代官山


4年ぶりぐらいなのだろうか、代官山というところに行ってみた。
たくさん、どこかで見たデザインがありました。
あ、10000円のボッテガがあるよ〜
こっちは5000円だ!と言うたびに
連れに恥ずかしいから大きい声するのやめてくださいと言われました。
中国人のことばっかり悪くいうない!と思いました。